地域一番アドバイザー阿部 和貴

略歴
宮城県出身。大学卒業後大手生活用品メーカーに勤務。人事部に配属となるも、もっと数字で評価される環境で、自分の力を確かめたいと思い、リクルートへ転職。
リクルートでは、求人広告営業に従事。営業の基礎を一から学ぶ。入社後2年目には、新規営業でのタイトルや、準MVP等、複数の賞を受賞。その実績を評価され、3年目を迎えると同時に当時のチーフの中、最年少でチーフに任用される。チーフになり最初の四半期は全指標未達と挫折を味わうも、そこから立て直し1年後には既存顧客の売上目標を140%で達成し四半期準チーム優秀賞を受賞。
その後、リクルート入社時の上司である弊社の滝沢と話す機会があり、経営戦略研究所の仕事を知る。弊社執行役員である萩原とも話し、採用だけではなく、より深く関わりクライアントの力になれる部分に魅力を感じ、入社を決意。
阿部和貴をより知って頂くために
幼少期〜高校
宮城県の仙台市から電車で20分程の距離にある岩沼市で生まれ育った私は、母、父、姉と私の4人家族で、ごく普通の家庭で育ちました。
幼い頃から友達と外で遊び、小学校では毎日のように外で遊んではどこかケガをするような活発な幼少期でした。そこから中学校ではサッカー部に入部すると、ある日突然キーパーに抜擢されました。理由はただ背が高かっただけです。やってみると案外楽しいものでチームのピンチを自分の手で救える事に自己効力感を感じることも出来ました。
それから高校でもサッカー部に入部。高校は、地元の工業高校の機械科を選択しました。工業高校を選んだ理由としては、当時働くという事がとても大人のように感じ、早く就職したかったからです。サッカーは順調で、2年後半からレギュラーに定着し、地区大会で優勝できました。
ただ、問題だったのは学業の方です。成績は問題なく、むしろ3年の定期テストで数学は100点を取るなど良い方だったと思います。問題は、機械科の実習を通して全く面白みを感じないという事です。人には向き不向きがあると思いますが、黙々と金属を削り、溶かし、固め、磨くなどの作業が私には合いませんでした。
学校で工場見学もあるのですが、最新の設備を見ても、ワクワクや凄い等思わない状態で、2年後半頃から「このまま就職していいのだろうか。」と悩み、文系の大学へ進学を考えるようになります。
ただ、私の家はあまり裕福というわけではなく、高校卒業後は働くと両親にも伝えていたため、大学に向けた資金等一切ない状況でした。また、私の通う工業高校から文系大学へ進学は1学年180人中、毎年1人いるかいないかの難しい道でした。そのため、諦めようとした所、当時の担任の先生が相談に乗ってくださり、大学生活やその後のキャリアについて詳しく教えて下さいました。その話を聞きやはり大学に行きたいと感じた私は、どうすれば大学へ進学が実現できるかを考えることにしました。費用の面では入学時にどのくらい必要かを考えアルバイトを始め、勉強面は普通科と違い数Ⅲ等授業に無い科目があったので、普通科に通う友人に頼み使わなくなった教科書を借りて勉強をしました。そしてその後、無事入学することができ、自身の望んだ道に進むことが出来ました。この経験から、すぐに諦めるという選択肢を取らずに、どうすれば達成できるかを考えることが身につきました。
ワクワクとハードワークの大学生活
大学生活が始まり、友人が一人もいない中不安でしたが、人に恵まれ友人もどんどん増えて行き、講義が終われば、遊びに行く等、充実した大学生活を送っていました。
ただ、遊んでだけはいられず、バイトをしなければなりません。私の場合学費を自分で払うと決めて入学したので、空いている時間はすべて働きたいと考えておりました。空き時間を埋める為、掛け持ちを増やしていくと、気づけば3年になる頃には5個バイトを掛け持ちしていました。居酒屋、焼き肉屋、工場の換気扇掃除、自治体の町おこしのクラウドファンディング等色んなジャンルのバイトでした。居酒屋で夜中の3時まで働き、その数時間後には次のバイトに向かう。そして単位取得の為に大学にも通いレポートや課題もこなす。それでも学費等を払うとお金も余り貯まらず、むしろギリギリの生活でした。
そんな大学とバイトの生活を過ごす中、ついに4年に突入します。就活が一気に始まり、私も焦りを感じ動く中で、運良く地元にあった大手生活用品メーカーで内定が出ました。
入社の決め手は、年功序列ではなく、実力主義で若くても数字を出せばリーダー等にもどんどん上がって行くという点でした。大学ではお金のことで悩むことも多かったので、20代から出世してお金に困らない人生にしようと考えていた為です。
社会人1年目の挫折
個人とチーム双方の力
迎えた社会人1年目。私が入社した会社では、新卒は最初の2週間は会社指定のホテルに泊まり、朝はそこに迎えのバスが来て、研修会場に行き1日研修、そしてバスでホテルに戻り、そこからは外出禁止という内容でした。
研修1日目、本社で入社式がありそこから研修会場へ、会場につくと研修トレーナーがおり、決められた席へ案内される。集められた新入社員は、どこか大学生活が抜けきらず席についても談笑している様子でした。そこへ研修担当の方がマイクを持ち一言。「いつまで大学生気分でいるんだ!」。突然の怒号に会場内は一気に静まりました。そこから甘い雰囲気等一切なく班分けされ、班ごとに企業理念の唱和等が始まり、少しでも詰まったり噛んだりしたら失格で列に並び直すといった研修が始まりました。そんな研修をクリアし、最終日の最後にはその場で配属先の発表をされます。全国すべて配属の可能性があるので、皆ドキドキしていました。そして私の番になり、「人事部労務科」と言われました。文系大卒の殆どは営業職に配属されるので、一瞬何を言われたか理解出来ませんでしたが、まさかの営業職ではなく人事部労務科への配属でした。希望は営業職であり面接時もそれを伝えていたため、なぜ?という疑問が残りましたが、まぁ地元の宮城県勤務だしいいかと軽く考えていました。
配属後、私は中途入社者の手続きと、正社員の給与管理を担当することになったのですが、業務内容はひたすら数字の書いた紙を一列ずつ間違いが無いか確認する、入社者の情報を専用のシステムに入力する等でした。皮肉なことにも高校時代苦手としていた、黙々と作業を繰り返す仕事だったのです。もちろん大事な仕事ですし、重要な役割だと思うのですが、私には合いませんでした。何よりも合わなかったのは評価の部分でミスが無いのが100点から始まり、ミスが出るたび100点から点数が引かれていくような評価の部分でした。当時会社ではまだ肉眼でのチェックが主流な状態でした。その中で間違っては行けないプレッシャーと合わない業務へのストレスでどんどん活力がなくなり、朝早く目が覚めるけど、天井を見たまま動く気力が出ないという状態になりました。このままじゃまずいと思い、何かチャレンジして見ることにしました。
そこで私はエクセルで、数字のチェックが出来ないかを考えました。当時エクセルの数式など全く分からず、ネットで調べ先輩に聞きながら学び、自身の業務に活用できるシートを作ることが出来ました。これにより今まで手作業で1日かかっていた業務も半自動化し、午前中で終わるようになり、やりがいを感じる事が出来ました。その状況から自分次第で仕事への感じ方も変わるのだと学ぶ事が出来ました。そこからは自身で例えば新人教育用のマニュアル等、日常の業務の改善したほうが良いものを書き出し、作成していき翌年に入る新卒用のカリキュラムを作成しました。
しかし、評価の点はどうしても変えることは出来ませんでした。
その生活の中、求人を眺めているとリクルートの求人が出てきました。その求人内容には、実績や経験、年齢等一切関係無いという内容と、数字で評価されるという内容が書いてあり、魅力的に見えました。そして職種も営業職に確定しているので、すぐに応募しました。その後熱意や意欲が伝わったのか、運良く内定となり、20代での成長を考え、やはり数字で評価される環境で自分を成長させていきたいと思い、転職を決めました。
リクルート~仙台時代~
リクルートでは仙台拠点に配属となり、業務内容は求人広告の提案でした。
営業デビューは未経験ながら比較的順調にスタートしました。最初はとにかく数で勝負と思い、空いた時はひたすら架電をしていました。そして最初の四半期が終わる時には中途入社の同期が22名程いたと思うのですが、その中で1位を取ることが出来ました。
しかし、そこから徐々に減速していきます。経営目標は達成するも、平凡な営業になっていました。自分の中でもこの頃は、最初頑張ったしまぁいいかと考えていました。そんなある日マネージャーと面談する機会があり目標を聞かれ、各指標の120%達成しますと発表すると、「おもんないなぁ、何しにこの会社きたん?」と言われました。最初は憤りを感じましたが、冷静になり確かに自分は何をしているのだろうと思いました。新卒1年で転職し未経験でただ平凡に達成するだけの営業のどこに価値があるのだろうかと自分に焦りを感じました。弊社の経営塾のべーシックセミナーでもある通り人は目標以上にはなりません。「このままではまずい!」そう考えた私は実績を作るためにも、初めて表彰をとろうと思いました。
そこから、マネージャーに「まずは得意の新規営業でタイトル取ります」というと、「全員の前で宣言して」と言われ、全体会議で全員の前で宣言しました。こうなると逃げられません。宣言したのは良いものの、戦略などは0に等しかったので、当時拠点で過去にタイトルを受賞した先輩にお願いし、営業を教えて頂く機会を得ました。そこで教えられたのが「モノ売りではなく、コト売り」の考え方。それまで私は採用ニーズの有無を聞き、採用したいと聞こえた途端、いかに商品が優れているか、を伝え売り込むだけの営業でした。しかし教わった考え方では、「採用したいけど出来ていない」この事実に対して、何が要因かを聞き採用課題を明確にした後、その課題解決のために商品を提案し、「採用成功」を売るという事でした。細かいやり方や狙いを詳しく教えて頂きました。早速次の日から、お客様に実際に話して反応を聞きながら、「今のはこういう反応だったから、次はこう話してみよう」と先ずは実践して、そこから改善を繰り返していきました。そして毎日仕事の最後には、定性だけではなく、その日の結果を数値で振り返り、次の日の動きを決めて終わる。そんな生活をしているうちに徐々にトークも上達していき、成約も増えて行くようになりました。
それでもタイトルに後もう少し足りない状況でしたが、宣言した危機感から突き動かされ、ここまで来たら数で勝負と思い、遅くまで残り架電リストを作成しました。結果四半期での新規目標が18件のところ52件獲得で約300%で達成をし、新規営業のタイトルを取ることが出来ました。合わせて準MVP賞も受賞し、初めて全社での表彰を取ることが出来ました。また、その頃から採用成功率も平均を上回り、お客様にも感謝されるようになりました。数字だけではなく、お客様の採用に貢献できた事でやりがいを感じました。
そして3年目を迎えた頃、ある日マネージャーから呼び出され、「突然やけど、札幌いかへん?」と言われました。
当時の北海道拠点はグループとしてもメンバー個人でも成績がずば抜けて高く、環境としては非常に勉強になると思いました。また、異動と同時にチーフになるという異例の条件をマネージャーは用意して下さいました。ただ、生まれてから一度も宮城県外で住んだことがない私は不安もあり、すぐには答えられず1日猶予を頂きました。
そこからじっと考え、「こんなチャンス二度と無いし、これを逃したら一生後悔する気がする」と思い、北海道拠点への異動を決めました。
リクルート~北海道時代~
北海道拠点に異動し、チーフ生活がスタートしました。当時のチーフの中では最年少だったのですがある程度やれると思っていました。しかし最初の四半期はまさかの全指標未達。何が起きたのか分かりませんでした。当然チームはランキングで最下位、絶望しました。絶望する中で、一人の先輩チーフに助けを求めました。すると「メンバーの高校の部活は何だったか分かる?」と聞かれ、私は答えられませんでした。そして「相手を知ってその人が何に喜び何を嫌がるか知らないと、その人に合わせたマネジメントは出来ないよ」と言われ、反省しました。確かに自分は突然別拠点からやって来ていきなり指示だけする最悪な上司でした。そこからメンバー全員と面談をしました。面談では、幼少期からこれまでの人生を聞きました。その中では、「この時ってどう感じたの?」とただストーリーを聞くのではなく、その時の本人の気持ちを聞き、この人ってこういうことを嬉しいと感じるんだなというのを知っていきました。
そこからは個人の強みに合わせ、チーム内で役割を付与していきました。その結果絶望から1年経とうとする頃には、四半期で既存顧客の売上目標を約140%で達成し、準チーム優秀賞を獲得出来ました。また私のチームのメンバーからは、MVP受賞者も出てとても嬉しい気持ちになりました。
人は感情を持つ生き物であり、信頼関係の重要さを学ぶことが出来たと思います。
経営戦略研究所との出会い
そしてリクルートで4年目を迎え、リクルート入社時の上司であった弊社の滝沢と話す機会があり、経営戦略研究所の仕事を教えて頂きました。
「お客様のためになる事はすべてできる」という話を聞きました。マネジメントやマーケティング等クライアントのパートナーとして、できる事は全部できる。そして自分の評価はクライアントの数値がどれだけ上がったかで評価される事を知りました。「こんな感じでお客さんにも喜んでもらえるよ」と見せて頂いたメールには、クライアントからの感謝のメッセージが記されていました。その後弊社役員の萩原とも話す機会を頂き、興味がどんどんやりたいに変わっていきました。
当時リクルートの仕事に大きな不満はなかったのですが、あくまでもお客様とはリクルートの採用を手伝ってくれる人という関係でした。滝沢と萩原の話を聞き、私自身が商品となり、顧客の経営の細部まで関わるという仕事に、チャレンジしたいと思い、転職を決断しました。
私自身支えられてきた人生だからこそ、今度は私が誰かを支える番だと思っています。これまでの経験や弊社の岩渕メソッドをもとに、クライアントの歯科医院へ本物の豊かさを届けられるよう尽力して参ります。

