地域一番アドバイザー滝沢 英之

略歴

秋田県出身。
小学校から高校まで野球部に所属。高校を卒業後地元の会社に就職し、社会人野球を経験。野球を引退するタイミングで今まで野球に頼ってきた人生と決別し、ビジネスマンとして活躍できる人材になることを決意。「営業経験なし」「学歴なし」「実績なし」という状況で「3年でどこでも通じるビジネスマンになる!」という熱意が伝わりリクルートへ転職が決まる。

リクルートでの在籍期間7年で個人店から数百人規模の企業まで様々な業種、業界の経営者へ求人の提案を行うことで採用のノウハウを学ぶ。営業未経験ながら、上司、先輩の献身的な指導と自身の強みである「人物理解、信頼して任せる」という部分を評価して頂き、4年目でチーフ任用(マネジメント)。営業部におけるチーム売上トップ賞、新規獲得における取り組みが評価された特別賞、最優秀グループ賞などを受賞。また、育成したメンバーからMVPやチーフを複数名輩出。営業部においての戦略商品の推進リーダーを任され、70人以上の組織を動かしながら成果を出す。ということを経験。

そんな中、リクルートの先輩である萩原、渡邊と話す機会があり、経営戦略研究所の存在を知る。「売上目標がない」「クライアントの人生を変え、感謝される仕事」ということと、代表の岩渕の元、働く方たちの意識が非常に高く日々クライアントのために本気で向き合っている環境だという部分に惹かれ転職を決意。

・家族構成:妻、長女4歳、長男2歳
・4月22日生まれ おうし座 O型

滝沢をより知っていただく為に

幼少期~中学時代

秋田県秋田市で生まれ、父、母、弟と私の4人家族で一般的なサラリーマンの家庭で育ちます。小さいときから運動が大好きでとにかく外で遊んでばかりの幼少期を過ごします。

小学校に入り、毎年行われるマラソン大会で初めて1位を経験。走ることが得意なことに気づく。
4年生になると“仲の良い友達がいるから”という理由で野球部に入ります。その頃から父は単身赴任になり、休日以外は家にいない生活が続きます。母もパートで働きに出るようになり、子供心ながらに、迷惑をかけないようにしなきゃと思い、反抗期もなく親に遠慮して自分の気持ちを抑えるようになります。

中学生になり、野球部か陸上部に入るかで悩みます。
親は、マラソンが得意だからという理由で陸上部を勧めてくれました。当時の野球部は1年生から3年生まで100名程の大所帯。市の大会も連覇するほどの強豪校だったということもあり最後の最後まで悩み、野球部に入部を決意。挑戦してみたい!という自分の気持ちを親に伝えることができました。

3年生になる頃には、レギュラーになれるかどうかギリギリの選手でしたが、転機が訪れます。はじめて投手として練習試合に出場し、その試合を0点に抑えることができたのです。練習で、コントロールの良さを見抜いていた監督がチャンスをくれたのでした。その練習とは先輩が打ちたいコースを指定してくるのでそこに合わせて打ちやすい球を投げ続けるというものでした。そんなプレッシャーの中でも集中力を切らさず投げきることで技術が磨かれたのです。

運命のレギュラー発表。エース候補の選手ではなく、自分の名前が呼ばれます。周りも自分も驚く中、部員100名の中からエース番号を勝ち取ることが出来たのです。それから大会までの期間、選ばれたからにはとにかく結果を出したいと思い、練習に打ち込んだのですが、OBや親、先生、地域の人など、様々なところから期待の声を頂くことが多く、感じたことのないプレッシャーが自分を襲ってきたのです。

常に練習をしていないとプレッシャーに押しつぶされそうになるので、学校での練習が終わると足に重りをつけて毎日8キロの走り込み。野球に関する書籍を購入し、変化球や投球動作の勉強と、とにかく結果を出すために必死でした。

迎えた最後の大会。順調に勝ち進み、準決勝で県内でもトップクラスのチームに当たります。試合が始まると、投手戦になり両チームが0点のまま最終回を迎えます。味方選手がヒットとエラーで出塁し、2アウト1塁、3塁となり、この試合最大の得点チャンスが訪れ、味方ベンチ内の空気が一気に変わります。私は自分まで打席が回って来ないことを確認すると、延長戦に備え、投球の準備にはいります。その時、塁上の選手に監督からサインが送られます。失敗すれば3アウトとなる状況で、意表を突いた盗塁のサインでした。次の瞬間、味方選手が盗塁を仕掛けます。そのプレーが相手選手のエラーを誘い、3塁ランナーがホームイン!サヨナラ勝ちを収めます。

その勝利をきっかけに、勢いに乗ったチームは見事、市の大会6連覇を達成。嬉しさ、プレッシャーからの開放。色々な感情が入り交じりながらも達成感で満たされた瞬間でした。そしてその勢いは止まらず、そのまま県大会も勝ち進み、学校創立初の全県優勝という快挙を成し遂げたのでした。その経験を経て“チャンスをモノにできるのは継続して努力し続けた人だけ”という事を学びます。

高校時代~社会人

中学校で結果を出していた自分は、高校でもやっていける自信がありました。
速い球で三振を取るような投手ではありませんでしたが、サイドスローからストライクゾーンギリギリに投げ抜くコントロールと、全方向の変化球、特に右バッターに対して三振の取れるシンカーを武器に2年時の夏の大会では、主力投手として出場。優勝候補の高校相手に善戦することができ、たしかな手応えを感じていました。さらに、“3年生の夏を終わらせてしまった”という申し訳無さと悔しさで、「来年こそは甲子園に行く!」「こんな悔しい思いはしたくない!」と誓って、今まで以上に野球に打ち込んだのですが、その想いは数ヶ月で打ち砕かれてしまいます。
他県の強豪校と練習試合をした際に、トップ選手との力の差を見せつけられるのです。全国レベルを知り、自分の可能性を信じることができなくなってしまったのです。

悔しい気持ちを忘れたくない。負けたくない。一方で自分よりはるかにレベルの高い選手がいるという現実。そんな葛藤を抱えたまま迎えた最後の大会なんと初戦負けを喫してしまいます。
最後の夏は驚くほどあっけなく終わってしまうのです。

進路を決める段階で、あきらめきれない自分は大学へ進学して野球を続けるか悩みます。しかし、今まで野球をやらせてもらって親に負担をかけたという思いがあったので、野球だけをやりに大学に行くべきなのか?そんな風に考え、なかなか決断できずにいました。ちょうどその時、高校の野球部の監督さんに、「社会人野球という選択肢もある」という事を教えて頂きました。親に負担もかけることなく、自分で稼いで野球に打ち込める環境だと思い、迷いが吹っ切れ、社会人野球に力を入れている会社に就職することを決意します。

無事に地元秋田の会社に就職することができ、社会人となります。仕事内容としては紙を作る工場(製紙工場)で機械操作を行いながら、材料の加工、フォークリフトで資材をトラックに積み込むなど、工場内ではとにかく安全に、決められた数をミスなく納品する。という事を求められました。そして平日は仕事終わりに野球の練習。土日は試合という生活がスタートしました。仕事をしながら、本格的に野球の練習を行うのは非常にハードでしたが、その分成長することができ、県内で最もレベルの高いリーグに所属し、全国大会出場まであと一歩。というところまでチームは勝ち進むようになります。
チームの状態もよく、順調に思えた社会人野球生活ですが、5年ほどたったあるときに、徐々に試合に出る機会が減っていきます。毎年レベルの高い選手が入ってくるため、競争の激しい環境だったのです。そんな中、チームは念願の全国大会出場を勝ち取ったのですが、試合に出ていないという理由で素直に喜べない自分がいました。それでもチームに貢献しようと、試合に出る選手が最高のパフォーマンスを発揮できるように、自分なりのサポートを精一杯行いました。その中で、今まで自分がどれだけ支えてもらっていたのか。ということに気づきます。

7年目。引退を考えるタイミングで、今までの人生を振り返ると、野球を通じて、沢山の出会いや経験を得られたと同時に野球に頼り、“野球以外のことで自分を高める努力をしてこなかった”ことに気付きます。決して仕事を真剣にやってこなったわけではないのですが、「野球がしたい」という理由で今の会社を選んでいたため、“仕事”に対して野球と同じように情熱を注ぐことが出来なかったのです。野球しかやってこなかった自分に焦りを感じ、ビジネスマンとしてどこでも通用するスキルを身に着けよう!そう決意した瞬間でした。転職活動では、とにかく厳しく、“自分を追い込める環境”という基準で探していたところリクルートの求人にたどり着きます。「様々な業種の経営者に提案することで“短期間”で成長できる」そんな言葉に惹かれ、転職を決意します。

すぐに信頼する上司に相談。上司は応援してくれ、翌日から試験対策を始めます。リクルートに関する書籍を読み込み、会社の歴史、どういった人が活躍しているのか?上司に職務経歴書の書き方、面接のアドバイスなどをして頂きました。当日の面接では、野球を通して努力を継続できた経験があること、挫折も味わいそこから這い上がろうとしていること、3年間で結果をだし、どこでも通用するスキルを身に着けます。といった内容を中心に想いを伝え、なんとか合格。秋田から仙台に引っ越すことになります。

リクルート~新人営業~

無事に転職が決まり、仙台へ配属。リクルート生活のスタートです。
本格的に営業がスタートして2ヶ月ほど、徐々に担当するお客様も増えてきたタイミングで事件は起こります。あるタクシー会社様を担当させて頂き、求人掲載をして頂いたのですが、応募が2件だけあり、採用は0人という結果だったのです。「応募は入っていますし、安易に原稿内容を変え、反応がなくなっても困るので、同じ内容で再度掲載しましょう」とお客様にご提案しご了承を頂いたのですが、電話でのやり取りを見ていた先輩営業(5歳年下の女性)から怒鳴られたのです「採用できてないのに同じ原稿提案するってどうゆうこと??」「ちゃんとお客様の事考えてるの!?」と。
営業所に響き渡るくらい大きな声で言われたこと、先輩ですが年下の女性におもいっきり怒られたこと、自分の浅はかな考え。「恥ずかしい」「情けない」「悔しい」などいろんな感情が芽生え、お客様に申し訳ない気持ちになりました。先輩には謝罪し、原稿の内容を相談。改めてお客様に連絡し、「仕事の内容、どんな魅力があるのか?どんな人にきてほしいのか?」を中心に改めてヒアリングし、原稿に載せる情報を増やして、見ている人により魅力が伝わる原稿に修正。実際に改善した原稿から応募があり、無事に採用をすることができました。
「お客様の事を考えたベストな提案なのか?」を常に問う
という事を先輩から学ぶことができました。

リクルート~育成担当~

入社2年目となり、徐々に営業にも慣れてきたタイミングで育成担当を任されます。育成担当とは入ってきた新人のメンターとなり、新人が慣れるまでのサポート役の事を言います。
いざ、新人が来ると、余裕があるときは相談にのってあげるのですが、忙しくなると後回し。
そんな日々が続き、新人の業績も振るいません。新人と久しぶりに面談する中で
「忙しそうにしているから声をかけにくい」「悩んでも相談できないからつらい」と打ち明けてくれて、猛烈に反省しました。そこからはなるべく自分から声をかけ、忙しくても手を止めて質問に答えるように意識しておこなっていたのですが、段々とその新人が休みがちに。ついには連絡もなく会社にこなくなってしまったのです。

もっと自分が最初からコミュニュケーションをとっていれば、、、自分を責め、気持ちを切り替える事ができず考える日々。考えるなかで、気持ちを整理していくと、改めて自分の成長しか考えてこなかったということに気付くと同時に「自分が先輩から与えてもらったように、自分も誰かのために力になりたい」そんな思いに気づきます。

その半年後、再度育成担当をする機会を頂きます。
以前の反省を活かして、新人の業績も自身の業績もかならず達成して、「新人に不安な想いをできるだけさせないようにしよう」と誓い、スタートしました。
具体的には、新人の育成スケジュールの作成です。どの期間までに何を出来るようになっていれば◯か?という項目を細かく作り、目標を設定します。新人と私とで何が出来ていれば良いのか?をお互いが把握できるので、進捗が遅れていたら都度見直して、ペースが遅れないように意識しました。また、自身の営業効率をあげて、新人に時間を割けるように工夫を重ね、営業時間は短くなったが、以前と変わらない業績を上げられるようになりました。それを実現するために「お客様の満足度をあげる×時間創出」をテーマに置き「単価をあげる」ということに注力しました。業績を構築するうえで「単価×契約社数」のうち、契約数をあげるよりも単価を上げることで、より採用成功の確率をあげ、業績も安定させることができると考えたからです。過去の成績から平均単価を設定し、現状より〇〇万円あげると達成する見込み。という数字を出します。そこからは設定した単価を意識してプランを作成。さらになぜそのプランをやったほうがよいか?をお客様の課題にあわせて考え、全顧客に実施。漏れなく提案できるように「13時から15時の間に〇〇件提案して〇〇万円の売り上げを作る」というように時間あたりの目標を決め、毎日軌道修正していく。ということを繰り返しました。やっていることはシンプルですが、明確に数値を設定して提案するのと、それを毎日振り返る。この2点を徹底して行いました。

最終的には新人と自分自身の業績を達成し、育成の取り組みが社内の新人育成資料として
採用されることになり、自分が介在することで人を成長させるきっかけを与えられたことにとてもやりがいを感じた瞬間でした。

営業チーフ~尊敬する上司との出会い~

育成担当を経験することで、もっと沢山の人の成長に関わることがしたい。そして人の成長に貢献できる力を身に着けたい。そう思うようになり、それを実現するための目標として、複数の営業メンバーを率いてマネジメントを行う「営業チーフ」を目指すことにしました。

チーフになるために今の自分に足りないもの。当時の上司に確認すると「人を巻き込む力。これを身に着けてほしい」と言われ、早速実践をしていきます。

まずはじめたのは、グループ内推進(プロジェクトリーダーとなり)業績に係る項目の成果UPを目指すことに。当時新規顧客獲得に力をいれていたので、新規の推進を行うことにしました。今までは、自分の業績だけ(担当する新人)しかみていないことが多かったのですが、プロジェクトを通して組織全体がどうなっているのか?をみるようになりました。
また、数字だけでなく実際に新規の獲得が順調な営業とそうでない営業にそれぞれやり方を確認し、「どんな違いがあるのか?」を比較して、要因を分析するようになりました。必然的に組織内の人とコミュニュケーションをとる機会が増え、自ら推進メンバーも選定し、営業時間外に自主的にミーティングを行うなどして、プロジェクトメンバー同士で意見を出し合う場を設けるようになりました。
比較して出てきた要因をピックアップして、新規の進捗がよくないメンバーには課題毎に改善策を提示して成果がでるようにサポート。営業だけでなく、内勤スタッフさんも一緒にチームを組み、プロジェクト内でキャンペーンを行うことに。
「新規1件〇〇ポイント!」「アポ1件〇〇ポイント!」などゲーム性を持たせて、全員が楽しく、そして組織全体の数字(現状に)に意識が行くようにキャンペーンを準備。そういった取り組みを継続していくうちに、なんとなくグループの一体感が生まれ始めたのでした。

しばらくそういった取り組みを継続していると、半年たったある日、「チーフ任用です」
と上司につげられる。この間に、成績優秀な営業がチーフに任用となり、自分がやっていることは本当に正しいのか?周りのためになっているのか?など、プロジェクトを実施している間、前に進んでいるという感覚はあったものの、短期的に成果が出ておらず不安だったのですが、「人から信頼されている」「人を巻き込んで、広い範囲を動かした経験」という部分を評価して頂け、目指していた営業チーフになることが出来たのです。

チーフとしての業務にも慣れて来た頃、組織編成のタイミングで新しい上司がくることに。最初の面談で話したことがとても印象的でした。
当時、自分が担当するチームとして成績は悪くなかったのですが、営業所で見たときになかなか成果が出ておらず、なんとかしたい。と考えていました。そんな気持ちを上司にぶつけると、
「営業メンバーは“チーフの器以上“にはなれない。だからチーフは誰よりも、成長しなくちゃいけないし努力しないといけない。もちろん、その上司である俺もみんなに負けないように努力する。だから一緒に強い組織を作っていこう。」そんな風に言われたことがなかったので、「この人から学びたい!」と「この人のために自分が組織を強くしよう!」と強く思った事を覚えています。その日から、すぐに質問できるように、その上司の席のとなりに座るようにして、誰よりも会話をしました。どういった考えで物事を判断するのか?組織として今後どうしていくのがよいのか?など、会話をしていく中で、少しでも学びを増やせるようにと日々意識するようにしました。「凡事徹底」という言葉をもとに、自分がグループに与えられる影響度を少しずつ増やしていき、また、営業メンバー1人1人が自分たちの限界を超えるよう努力したおかげで、自分が入社してから一度も経験しかたことがなかった、チーム売上トップ賞や最優秀グループ賞を複数回受賞するなど、組織として一段成長できた機会に立ち会うことができました。

経営戦略研究所との出会い

そんなある日、リクルートの先輩である渡邊と話す機会があり
「クライアントの人生を変えるために、やれることはなんでもできる環境」
という事を伺い、はじめは半信半疑でした。
ただ、話を聞いていくうちに
自分が身につけたい、採用という枠に収まらず提案ができ、クラインアト様に価値を提供すること。そして、それを代表の岩渕をはじめとした全員が本気になり体現している事を知り
そのような環境でもっと自分を成長させたいと強く思うようになりました。

また、自分のキャリアについても悩んでいるタイミングでこのお話を頂き運命のようなものを感じ、「この出会いを無駄にしたくない」と思い転職を決意。渡邊と出会ってから1年半後に経営戦略研究所に入社。