地域一番ディレクター平社 雄一

略歴

埼玉県出身。大学卒業後はイベントの企画・制作・運営を主に手掛けるベンチャー企業へ入社。会社の規模は小さかったものの案件はかなり大きく、各種国際大会・各種プロスポーツ興行・某夏フェス、他多数の制作に従事。中でもアメリカのコンテンツを日本に輸入し開催するということをメインで担当。3つのイベントを日本で開催し、内1つは国内で10回以上開催。軌道に乗り初め、いざ全国展開していこうとした矢先に会社の倒産。2ヵ月分の給与と立替えていた経費含め約100万円弱が支払われないまま社長は雲隠れ。

そんな中、以前からお声がけ頂いていた東証一部上場会社のイベント部門に入社。前職とは一変、利益を上げるのが至上命令。前職の経験を最大限活かし。1年目から担当した複数案件で粗利益昨年比200%強を記録。定量・定性が評価されリーダーに就任。自身の利益は勿論、各メンバーへのマネジメント及び数値管理を徹底し、4期連続粗利益増(平均昨年比160%増)を記録

社内とクライアントの両組織が大きくなることに楽しみを感じ、経営というものに強く関心を抱く。丁度そのタイミングで当時在籍していた会社がグループ内統合されることになり、良いタイミングだと感じ転職をすることに。転職をすると決めた当月内に経営戦略研究所を知り、岩渕・先輩コンサルタントの話しを聞き、理念・環境・仕事観に共鳴し即座に転職を決意、入社に至る。

平社 雄一をより知って頂くために

幼少期

「また明日ね」
そう言い残し、仲の良い友人グループはバスケットのクラブチームの練習をしに体育館に向かい、私は校庭に一人置いてけぼり。校庭から見える体育館の入口には続々とクラブチームのメンバーが集まり皆楽しそう。そして練習の声、笛、ダムダム、キュッキュッという音が遠くから聞こえる中、一人でバスケをしているのを虚しく、そして孤独を感じ帰宅するという毎日でした。(親の意向でクラブチームに入会させてもらえませんでした)

そんな中、ある友人が新しくクラブチームに入った他校の生徒に私のことをこう紹介していました。
「いつもあいつは一人で残る可愛そうなやつ」
自分自身でも少なからず感じてはいたものの、自覚しようとしないことで平然を保っていたが、他者から言われることで一人という事実を感じ非常に落ち込んだことを覚えています。

それから、「あいつは寂しいやつ」「いつも一人」と思われないようにするため、学校では明るく振る舞い、他校から来るクラブチームのメンバーにも積極的に話しかけ、放課後友人が練習に行く際も「また明日ねー!」と気丈に振る舞いました。自分自身へ「寂しくない、明るい奴」という暗示、一人でも出来ることはあるし、楽しむ方法はいくらでもあると思考を自然と変えていたと思います。そして小学校高学年になると、「雄一は明るく楽しいやつ」というイメージがつくようになったのです。
自分の思考を変えたことが行動に繋がり、そして人格自体が少なからず変化したことで周りからの評価も変わったのだと思います。

また、後述しますが私は性格上辛い苦しいことが合っても、その事象を如何にプラスに転換し、負の感情を自分のテリトリー内に置きません。このマインドコントロールはこの頃から自然と養われてきたのだと思います。

理想と現実、そして挫折

予てよりイベント・スポーツの仕事をしたい、「好きを仕事にする」ことを求めていました。私が初めてプロフェッショナルを感じたのは遡ること2000年、ちょうど地元にさいたまスーパーアリーナができ、こけら落としとして「スーパードリームゲーム」というイベントが開催されました。「スーパードリームゲーム」とはバスケットボールの日本代表・アメリカ代表・スペイン代表が一堂に会し国際親善試合をするというものでした。初めてさいたまスーパーアリーナに入り、コンコースから重厚な扉を一つ開け、またもう一つ開けると、大音量・照明ビカビカの中、テレビで観ていた私のヒーローたちが試合前のアップをしているのです。あの時の光景は未だに脳裏に焼き付いています。

そんな非日常空間を生み、多くの人に夢と感動を与える仕事をしたいと思い、第一志望の会社に入社しました。その会社は正に「スーパードリームゲーム」をプロデュースした会社で、他にも私が実際に行ったイベントや、有名なイベントを多数手がけているところでした。願ったり叶ったりの環境は手に入れたのであとは自分次第と意気込んでいました。

「イベント業界は華やかな業界に見えて実際には地味な仕事ばかり」
そんなことは分かっていました。が、想像を遥かに越えてきました。イベントにお客として参加したことがあるだけでイベント自体を企画し、協力会社(施工、照明、音響、映像、特効、運営等)に協力を仰ぎ、本番当日ディレクションということは一切分かっていないズブの素人です。

また、社内の人間は殆どが40歳オーバーの職人肌のベテランで教育の文化は皆無でした。

そんな中任せられたのがある競技の国際親善試合でした。開場から試合開始までどんな演出にするのか、選手にはどう動いてもらうのか、どのタイミングでどの曲を掛けるのか、その時照明と映像はどうするのか、そもそも会場の施工はどうするのか等々決めなくてはいけないことが山程あり、そもそも何を決めれば良いかさえ最初は分かっておりません。そのため全て後手後手になり各所からあれはどうするのか、あの件はまだか等々の連絡が相次ぎ、終いには私への連絡は少なくなりました。相手にされなくなったということです。

ある設営日のことです。私のその日の役割は施工業者さんと事前に共有していた図面と同じように出来ているか確認し、修正があればその場で修正依頼をかけ、設営日中に施工物を完成させるというものでした。設営が進むにつれ、やや図面と異なるので修正を依頼したところ、、、
「何も分かっていないやつが口を出すな。引っ込んでろ」と言われ、
「どこの誰だあいつは!帰らせろ!」と大声で仲間内で話されました。
全身が竦みました。その方には何も返答できませんでした。

知識が乏しいということもありましたがそれ以上に私の接する態度が悪かったのです。私の中では私が設営を仕切らないといけないという気持ちと、私が発注元という気持ちが相混じり、やや上から目線の横柄な態度になっていました。発注元⇔発注先という関係はあれど、私からしたら施工業者さんがいないと何も始まらないのです。発注先=パートナーなのです。その意識なく取ったコミュニケーションが故に最悪の関係性になってしまいました。

失敗はまだまだあります。中でも「お前絶対訴えるからな」と顔を近くして言われたことは昨日のことのように覚えています。
あるアメリカのイベントを日本に輸入し開催するという計画を元に会場確保に動いていたときです。主催は実行委員会形式だったのですが、その中でも一番お金を出す某有名企業の担当者と一緒に会場に下見に行った際、なんと確保していた日程が確保出来ていなかったことが判明しました。原因は私の会場との折衝ミスです。既に概要の告知やゲストのブッキング等が進んでいる中での発覚です。そこではっきり言われたのが「お前絶対に訴えるからな」です。訴えると面と向かって言われたことある人なんてそんな多くないのではないでしょうか。私もドラマの中の話しと思っていました。ただ会社の威信を掛け数千万円を投資予定だったのと更にその担当者が長年掛けて築いてきた社内のポジションも危うくしたのですから、そう言われても仕方がない私の失敗です。

ただこの苦い経験から大切な学びになったこともあります。会場側に対して言ったことと伝わっていることは違うこと、また相手と共通認識を持っているか確認することが如何に重要か、ということを身をもって痛感しました。

数は質を凌駕する

自分の至らなさで多くの方にご迷惑をお掛けしましたが、仕事を辞めようとは一切思いませんでした。むしろこれまでの数多くの失敗を帳消しには出来ない代わりに、埋め合わせできるほどの成果をあげ、ご迷惑をかけた方々に恩返しをしなければという頑なな使命感を抱いていました。併せてそれが自分の伸びしろと本気で思っていました。失敗した内容自体が具体的な自分の伸びしろであり、それが出来るようになったことで成長を明確に図ることできる、と本気で思っていました。そしてここで踏ん張らないと一生失敗だけが残る人生になるなと。

松下幸之助氏の名言「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければそれは成功になる」と、高校の部室に貼られていた「死ぬこと以外かすり傷」の言葉を胸に、取り敢えず倒れるまで働いて、仮に倒れたらそれはその時に考えようと。

そこから会社に寝泊まりする日々が続き、半年で休んだのは数日のみ、イベント前は3日間徹夜したこともありました。(3日間徹夜したイベント終了後、電車でつり革を握ったまま寝てしまい、座っている人に倒れ込んでしまったこともありました。)
この生活を続けて2年が立つ頃、ようやく社外に協力者が出来てきました。プロセスを認めて頂けるようになってきたのです。
そして少し難しい依頼でも
「平社さんがそう言うならしょうがないな~!」
「平社さんからの依頼なら断れないじゃないか」
と言って頂けるような関係性を構築できるようになってきました。自分のキャパ以上の仕事をして質を数で担保したことで、いつからか数が質に転換するようになったのです。
そうなると成果も自然と出るようになってきました。そして周囲との関係性を深められた大きな要因は、関わる全ての方に最大限の敬意を払うようにしました。協力者がいないことには自分は成り立ちません。それを重々理解・意識し、協力会社の方は勿論、歳下だろうがアルバイトさんだろうが関係なく敬意を持って接するようになってから自然と周囲との関係性が良くなってきたのです。
驚くことに冒頭で記載した施工業者さんや、「お前訴えるからな」と言われた方とはむしろ今は非常に良くして頂いています。(両イベントも最終的には成功しました)
振り子の法則で大きく悪い方に振れていたものが、諦めず行動し続けたおかげで今度は大きく良い方に返ってきてれました。この等価交換の成功体験、すなわち大きな負の状況にいても、建設的に動き続け、数で質を凌駕すると協力者ができ、成果を出せるという実体験は私の人生の大きな財産です。

人生最大の窮地に

うまく行き始めた矢先、会社が倒産しました。
今でも忘れません8月末の事です。「明日で会社が倒産し、オフィスに立ち入れなくなるので、今日中にオフィスの私物をまとめて出てください。」と社長から淡々と言われ、倒産する旨が書かれたペライチのA4用紙を渡されました。
数か月前から給与支払いが滞り、立替えていた経費も精算されていなかったので「ヤバい」とは思っていました。ただ、信頼を構築できてきたクライアント、協力会社と共にイベント本番に向けた準備は始まっているので、止めてはいけないという責任感と、自ら放り出したくないという想いのまま無給・未精算のまま進め続けていました。しかし会社の倒産を理由に志半ばで撤退することになりました。

倒産し、自分の給与・立替え経費よりもまず思ったのは、これまで一緒に進めてきたクライアント、協力会社の方々の顔です。
綺麗ごとを言っているわけではなく実際にそう思ったのです。大迷惑をかけた相手と紆余曲折ありながらも信頼関係を構築できパートナーとしてイベントを作ってきたからです。その関係性を不本意ながら裏切る形になってしまったのです。各協力会社に支払わなければいけないお金だってあります。「平社さんから依頼されたからなんとかやりますよ!」と言って頂いたところにどんな顔して説明すればいいのか、途方に暮れました
ただ思い浮かぶ出来ることはただ一つ、誠心誠意謝罪するということです。
謝罪の説明に行くとほとんどが「ショックだけどこればかりは致し方ない、平社さんのせいではない。むしろそんな状況の中よくやってくれていた。」と言って頂けたのです。相手のことを最大限に考え、行動し、構築できた信頼関係は簡単には崩れないと実感した出来事でした。

新たなチャレンジの始動

倒産から遡る事2年前、アメリカのコンテンツを日本で開催する案件で、人生の模範としたいと思うほどの人に出会っていました。常に冷静沈着ながらも豪快さを兼ね備えており、こんな大人になりたいと強く思っていた方から、何度かうちの会社に来いと誘って頂いておりました。倒産を機に改めてお声がけ頂けたので二つ返事でお願いしますと伝え、倒産したベンチャーとは一変、東証一部上場企業のイベント部門に入社しました。

前職の経験を最大限活かしつつ、最も求められたのは利益です。毎日のように数字を確認され、mtgの度に数値の進捗報告する、口を開けば利益どうなっているという言葉が出てくる社風でした。ただ、個人的には全く嫌ではなくむしろ新たな環境で新たな視点での働き方だったので刺激的でとても楽しく感じていました。

前職の経験値が最大限活き、入社1年目から担当した複数案件で粗利益昨年比200%強を達成。また新規案件も複数作ることができ、前職時代に投げ出さずに動き続けた成果が新しい会社でも通用することを実感しました。
そして定量・定性が評価されリーダーに就任しました。会社から課された目標は「利益昨年比120%」と「メンバーのマネジメント」でした。プレイングマネージャーとして自ら動いて利益を上げるのは勿論、メンバーを巻き込み、目標の利益達成までの計画を立て、数値管理を徹底し、チームを機能的に動かすという新たなチャレンジが始まりました。

「教育/育成」というのは前職では勿論、これまでの人生においてあまりやったことがない分野でした。前職では教育の文化はなく、かなり苦戦したので、マネジメントは自分のタスクの中でも優先順位を高めに設定しました。それがメンバーのため、会社のため、自分のためになると思ったからです。

ただ最初は全くうまくいきませんでした。過去自分がやってきた、方法・やり方を丁寧に伝えても、そもそも着手されていない、着手されたものの途中で終わっている、自発的にやってくれないということが往々にして起きました。原因はやることを忘れていることだと思い、タスク管理表に全てまとめてもらいました。それでも実行されないのです。やることは分かっているものの行動に移されないのはなぜかと考え、どうすれば人は動いてくれるのだろうかとマネジメントに頭を悩ませました。

こういう時こそ本に頼ります。本を幾つか読むと大体同じことが書いてありました。
「意味づけをすること、目的を明確に伝えること」
「目的が達成された際、どうプラスに変化するのかを具体的にイメージさせること」

また、山本五十六氏が残した言葉に感銘を受けました。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

上記で学んだことを実践し、そして実践を積み重ねました。
チーム共通の目標と個人の目標を設定し、最初の方向性とやり方は一緒に作ります。基本そこからの進め方の詳細は各メンバーに一任しました。但し放置はせず、定期的に進捗は確認しました。2日に1回確認すべき人もいれば1週間に1回の確認で充分な人もおり、個別に進捗確認をするタイミングは変えていました。
業務を任せ、ある程度の責任を与えると、メンバーの当事者意識が如実に強くなり、質問の内容が変わりました。「○○だと思うので□□をやろうと思いますが如何でしょうか?」という自分の意見+アクションをセットにした質問、というよりかは確認をされるようになりました。
そして何より効果があったのはメンバーそれぞれやっている業務は違えど、チームとして達成すべきゴール地点は同じということを共有し続けたことです。ゴール地点を共有し続けたことで、それまでバラバラに動いていた各メンバーの業務が連携し始めたのです。点と点が線で繋がると、足し算ではなく掛け算のように成果が一気に上がるようになりました。

結果4期連続粗利益増(平均昨年比160%増)を達成し、その間退職者はゼロです。
そして何より頼もしい仲間が増えたことは非常に嬉しく、彼らがイキイキとしている姿を見られることは喜ばしいことでした。更に、自分一人で24時間365日働いても到底出来ないことを、チームの成長によって実現できることが個人的にも本当に楽しかったです。更に更にクライアントの成長を肌で感じることが出来たのも喜ばしい体験でした。
一つ前のベンチャーでは自分のスキルを、数をこなすことによって身に着け、そして転職先では特にマネジメントを経験できたのは、今思うと偶然ながら非常に良い流れだったなと思います。 個人スキルとマネジメント力でクライアントと社内が、「組織」が成長することに強くやりがいを感じ、この頃から経営について関心を抱くようになります。

経営戦略研究所への入社

より経営に近く、組織を機能的に強くする、それがクライアントのためになる、そして自分の成長にも繋がる仕事をしたいと強く思うようになりました。
丁度そのタイミングで当時在籍していた会社がグループ内統合されることになりました。正直、最初聞いたときは驚きましたが、すぐに新たなチャレンジをするのには良いきっかけとタイミングだと感じました。
不思議なもので強く求めると、与えられるものです。
よし、転職をしようと思った際、大学の先輩だった弊社コンサルタントの乙川に相談し、経営戦略研究所と出会います。
・顧客の経営に直接的に関与し、マーケティング・マネジメントの双方の取り組みを行う
・売上目標なし
・目先の利益ではなく、顧客との信頼・顧客の成長を最も重要としている
・ミーティングは月2回のみ、無駄なmtgはしない
・入社後、カリキュラムが完備されており、業務は一切せず半年間はコンサルタントになるための勉強に全ての時間を割く
最初聞いたときはそんな会社あるのか?と思いましたが、それ以上に胸の大きな高鳴りを感じました。
そして岩渕、先輩コンサルタントから会社の理念や仕事観や実態を聞き、この会社こそ自分が求めている以上のことを叶えられる!と直感しました。クライアントの経営に直接的に関わり、クライアントの成長を第一に考える。そのためにも自己研鑽を惜しまない会社。自分が求めていることをかなり高い次元で実行していると分かり、自分が身を置く環境はここしかないと確信し、経営戦略研究所の門を叩きました。