
地域一番アドバイザー佐藤 洋輔

略歴
岡山県倉敷市出身。大学卒業後、三井系列のハウスメーカーにて営業職として従事。入社当初は成果が出ず苦しんだが、「顧客の未来像に寄り添うヒアリング型の提案スタイル」を確立してからは、若手営業約600名の中で月間MVPを3度受賞。新人約100名中、年間個人成績2位を記録する。1億円を超える物件も複数手がけ、多くの経営者との折衝経験を積む。やがて、商品を販売するだけでなく、自分自身の力で組織全体の課題解決に貢献したいという想いが募り、経営コンサルティングの道を志す中で経営戦略研究所と出会う。クライアントに常に寄り添い、課題解決に全力を注ぎ、直接感謝の言葉をいただける、そんな当社ならではの理念と環境に強く共感し、入社を決意。前職で培った「粘り強い行動力」と「相手に寄り添う姿勢」でより多くの地域一番医院を創出していく。
佐藤をより深く知って頂くために
幼少期
三人兄弟の長男として、岡山県倉敷市で育った私は、幼少期に両親の影響で人格の土台が形成されました。両親からは常々「一度始めたことは、最後までやり遂げなさい」という言葉をかけられて育ちました。それは単なる躾というよりも、物事に対する向き合い方の基本を習得するために示してくれたのだと今では解釈しています。
この価値観のもと、ソフトボール、少林寺拳法、習字、学習塾と、様々な分野に挑戦する機会に恵まれました。習字では、5年間続け、県で金賞を受賞。少林寺拳法でも約5年間、体の小さな私が黒帯を取得するまで、人一倍の稽古を積み重ねました。
しかし、中でも私の人生に大きな影響を与えたのが、小学4年生の時に始めたソフトボールです。
当初はセンスに乏しく、特に守備ではチームの足を引っ張ってばかりいました。4年生の冬、負けたら6年生が引退になる大会の決勝戦。5回裏、同点の場面で私のエラーが決勝点に繋がり、チームは準優勝に終わりました。自らの失策が要因で試合に敗れた日の仲間たちの落胆した表情は今でも忘れられません。
その夜、私は悔しくて一人で泣きました。「なぜ自分だけうまくできないのか」「みんなに迷惑をかけてしまったのか」。しかし、この不甲斐ない経験が、私をひたむきな練習へと駆り立てました。「才能で劣るなら、行動量で補うしかない」。その一心で、来る日も来る日も練習に明け暮れました。学校が終わると一目散にグラウンドへ向かい、日が暮れるまで壁当てと素振りを繰り返し、休日には100球のノックと100回の素振りを徹底して継続しました。
両親が教えてくれた「真の支援」
ある試合で投手として登板し、敗戦投手になり落ち込んでいた日、普段は野球に関してあまり関わりを示さなかった父が、何も言わずにグラブを手に、黙々と私の投球練習に付き合ってくれました。ただ黙って、私が投げるボールを受け続けてくれました。
そこには叱咤激励の言葉もなく、技術的な指導もありませんでしたが、父のその姿は、「お前の努力(プロセス)を、見守り、認めている」という、何よりも力強いメッセージが伝わってきました。また、母も、練習や試合には毎回応援に来てくれ、時には言葉を投げかけ、常に私の主体性を尊重し、温かく見守ってくれました。
この両親の姿勢から、「真の支援」とは、言葉による介入ではなく、相手の可能性を信じ、その挑戦のプロセスを肯定し続けることにあると、学びました。この体験こそ、クライアントの院長先生方と並走し、その主体的な行動を後押しする、私のコンサルティングスタイルの原点になっています。
努力が結実した瞬間
やがて努力が実を結び、6年生の頃にはキャプテンを任されるまでになりました。その頃にはチーム随一のプレーヤーにまで上達しており、また、勝利のために何が必要かを考え、行動し続ける姿勢を、周囲が評価してくれた結果、キャプテンという役割を与えられたのだと思います。
キャプテンとして、私が最も心がけたのは「全員野球」の実現でした。控えの選手も含め、9人全員がそれぞれの役割を理解し、チーム全体で勝利を目指すことを目標に掲げ、練習では個々の能力を引き出すための「アドバイス・コーチングなどのサポート」に徹し、試合では「率先してチームを鼓舞し牽引する」役割を担いました。その結果、市内の大会でも、私たちのチームは過去最高の成績を残すことができました。
この経験を通じて、後方から仲間を支える力と、先頭に立ってチームを牽引する力、その両方の重要性を身を持って学びました。これは、現在の歯科医院経営支援において、時には院長先生の良きパートナーとして、時には先頭に立つリーダーとして、状況に応じて役割を変えながら医院を成功に導く姿勢に直結していると考えています。
ソフトボール・野球から学んだ「経営に対する考え方」
個人とチーム双方の力
私の経営に対する考え方の多くは、野球という競技から培われました。野球は、個人個人の能力と同じくらい、あるいはそれ以上に、各ポジションの機能と、それらの連携が勝敗を決定づけます。
4番バッターの一打が試合を決する裏には、必ずと言っていいほど、多くのサインプレーや自己犠牲を伴うチームバッティングといった、目立たない伏線が存在します。1番バッターの出塁、2番バッターの送りバント、3番バッターの進塁打。これらすべてが連動して、初めて4番バッターの一打が活きてきます。投手側にたった場合も同様、一人で勝てることはなく、バックに守ってもらって試合が成立します。個人の能力に依存するだけでは、チームとして強くはなれません。
野球という競技は、各選手が自分の役割を理解して自発的に動くことで、チーム全体が噛み合い、一つになり躍動するという、まさに組織の理想形を示唆しています。
これは歯科医院経営においても全く同様だと考えています。院長先生という卓越した技術を持つ長のもと、受付スタッフ、歯科助手、歯科衛生士といった各スタッフが、自らの役割を理解して遂行し、医院全体の理念と連携して初めて、患者様への提供価値は最大化されます。
例えば、院長先生が高度な治療技術を持っていても、受付での患者対応が冷たければ、患者満足度は大きく損なわれることになります。逆に、各スタッフが自分の役割を理解し、患者様第一の姿勢で連携すれば、治療技術以上の価値を患者様に提供できうることもあります。
私の役割は、その連携を可能な限り強固なものにし、円滑な組織を作り上げるサポートをすることにあると考えています。
中学時代 「サポート力の重要性」
挫折が生んだ新たな視点
私が在籍した中学校の野球部は、私の世代では大会でベスト4を切ることがない、県内屈指の強豪校でした。当然ながら選手層は厚く、県内の選抜に4人選ばれるなど、才能に溢れる選手に囲まれる中では、ソフトボールでキャプテンを務めていたからといってレギュラーの座を掴めるほど甘くはありませんでした。
毎日の厳しい練習に耐え、土日も返上で取り組んでいるにも関わらず、試合に出られない日々が続き、悔しい想いを抱え続ける毎日でした。
しかし、その逆境が私の視座を高めてくれました。「プレイヤーとして貢献する機会が少ないのであれば、別の形でチームの勝利に貢献することはできないか」。その問いが、チームとして・組織として強くなるためのきっかけを与えてくれたのです。
傾向分析による貢献
私のチームは毎週練習試合を行っており、地区のチームとは公式戦以外でも試合をする機会が多くありました。私はソフトボール時代とは打って変わって守備力を買われており、守備のポジショニングが得意でした。そこで各練習試合で対戦相手の打者の傾向を記録し、詳細なデータを蓄積していきました。
さらに、データに基づいた守備のポジショニングをチームに提案し、各試合前の戦略ミーティングでは、チーム全体に打者の傾向を共有し、守備のポジショニングに関する理解を浸透させる役割も担いました。
勝利への貢献と得られた自信
ある県大会準決勝で、私の分析が大きな成果を生みました。相手チームの4番バッターが、2ストライクに追い込まれると必ず低めの変化球を引きつけて狙ってくるという傾向を発見。その情報を野手陣に伝え、右寄りのシフトを敷いていたことでその試合最大のピンチを切り抜けるができました。この一球が勝利の大きな決め手となったのです。
試合後、仲間から「佐藤の分析のおかげで勝てた。助かった。ありがとう。」と声をかけられた、その時の高揚感は今でも忘れられません。自分が直接ボールに触れなくとも、傾向を分析し、準備することで、勝利に貢献できるという事実は、私に大きな自信を与えてくれました。
この経験は、私に二つの重要な学びを与えてくれました。
一つは、「組織におけるサポート部門、いわゆるバックオフィスの重要性」です。歯科医院においても、院長先生が臨床に集中できる環境を作るために、経営、マーケティング、スタッフ教育といったサポート機能が極めて重要な役割を果たします。
もう一つは、「最前線に立たなくとも、情報と分析によって組織のパフォーマンスに絶大な影響を与えられる」という事実です。これは、院長先生の経営判断をサポートするために、患者様データの分析、競合調査、市場調査、経営数値の見直しなどを行うことの重要性を示唆していると考えています。
高校時代 「停滞から学んだ目標意識の重要性」
成績の急降下と無気力な日々
一方で、高校時代は、私にとって「停滞と内省」の期間でした。中学時代、野球に打ち込みながらも学年200人中上位10番前後を維持していた学業は、高校に入ると一転し、300人中250位前後と、下から数えた方が早いほどの状態にまで落ち込みました。
また、部活動も中学野球で全力を出し尽くした反動か、なんとなくテニス部に入ってはみたものの、そこに情熱を注ぎ込むことはできませんでした。明確な目的意識のないまま過ごす日々は、驚くほど張り合いがなく、ただ時間だけが過ぎていきました。
目的意識の再構築
高校3年生になった時、周りが勉学に勤しむ様子を目の当たりにし、将来について真剣に考えたとき、自分が目標を失っていたことで無気力になっていたと気づき、そこから私は「某国公立大学に現役合格する」という明確な目標を設定しました。そして、野球で培った「日々の積み重ね」「傾向分析」といった手法を勉強に応用しました。
弱点科目の英語は、毎日速読30分、単語・熟語の暗記50個を目標に継続して取り組みました。数学は、基礎問題を1000問解き、パターンを覚え込ませました。その結果、最終的に学年順位を20位台まで押し上げ、国公立大学に合格することができました。
この3年間を通じて私が痛感したのは、「目的意識の有無が、個人の力の発揮にどれほど決定的な影響を与えるか」という事実です。どれだけ力があっても、向かうべき先が定まっていなければ、そのパワーは無駄になってしまいます。
この体験があるからこそ、私はクライアントの院長先生との最初の対話で、医院が目指すべきビジョンを共有し、言語化するプロセスが何より大切だと考えています。「5年後、先生の医院をどのような状態にしたいですか」「スタッフの皆さんにはどのような働きがいを感じて欲しいですか」「患者様からはどのような医院として認知されたいですか」、といった目標の明確化こそが、医院の成長の原動力になると確信しているからです。
大学時代 「再起への挑戦と接客からの学び」
野球部での再起
高校時代の内省を経て、大学では「もう一度本気でスポーツをやりたい」という想いが強く芽生え、再び野球部の門を叩きました。そこは、過去の栄光や情熱だけでは通用しない、厳しい環境でした。
私の通っていた大学の野球部は全国大会にも出場するほどレベルが高く、高校野球を経験していない私からすると、当時その環境下で存在価値を示し、試合に出場することはかなり困難を極めていました。
しかし、粘り強さが取り柄の私は、高校時代に失われた時間を取り戻すかのように、再び野球に没頭しました。小・中学校で身体に染み込ませた基礎を、今度は意識的に、そして徹底的に磨き直しました。授業の合間をみては練習、バイトがない日も練習と、野球漬けの日々を送りました。
投手への挑戦
大学2年生の時、私は新たに投手にも挑戦しました。もともと野球部では外野手だった私にとって、投手は全く未知の領域でした。しかし、「新しい価値で勝負したい・自分の可能性を信じたい」という想いから、この挑戦を決意しました。
最初は結果が出ず苦しみましたが、中学時代の守備のポジショニングで傾向分析をしていた強みを活かして、「投球を組み立てること」で活路を見いだせるのではないかと考えました。そこで私は、各ケースによるバッター心理と、配球パターンに着目し、傾向分析に注力しました。
「相手の裏をかく配球」や「多彩な変化球」で勝負する投球スタイルを確立し、2年生の秋には、ついにリーグ戦でマウンドに立つことができました。
西日本大会・全国大会への貢献
その努力は、やがて大きな成果として実を結びました。3年生の春、私たちのチームは一部リーグで優勝し、全国大会に出場。さらに、その年の秋にも一部リーグで優勝し、西日本大会への出場も果たしました。私は主にリリーフ投手として、チームの勝利に貢献することができました。
全国大会では、強豪校相手に2イニングを無失点で抑え、チームの準決勝進出に貢献し、その時の達成感は、今でも鮮明に覚えています。
この経験を通じて、「本気で物事に取り組む楽しさ」と、「努力が成果へと繋がる喜び」を、私は再び取り戻すことができました。
定食屋でのアルバイト体験
大学時代、同時に、個人経営の定食屋でのアルバイト経験も、私に実践的な多くの学びを与えてくれました。そこは、大学近くの小さな店でしたが、学生から近隣の会社員まで、幅広い客層に愛されているお店でした。
そのお店にはマニュアルがありませんでしたが、私はお客様一人ひとりの属性や好みを観察し、相手に合わせたコミュニケーションを試行錯誤しました。
例えば、急いでいるサラリーマンのお客様には、注文を取る前にお冷やと箸を出し、「今日も唐揚げ定食でよろしいでしょうか」と先回りして声をかける一方、時間に余裕がある学生のお客様には、「今日のオススメは...」と丁寧に料理の説明をするなど、お客様ごとに対応を変えるようにしました。
顧客関係構築の原点
3年間のアルバイトを通じて、私は常連のお客様一人ひとりの好みや来店パターンを記憶し、親しみを持って接するようになりました。「佐藤君がいると安心する」「毎日楽しみにしている」といった言葉を頂くこともしばしばありました。
そのようにお客様に言っていただいた言葉が、後の私の職業観にも繋がっています。また、お店の店長からも評価をしていただき、「佐藤くんが働いてくれたおかげもあって常連のお客様が増えたよ」「業績も良くなった」と感謝され、知らず知らずにリレーションシップ・マーケティングが成功していたことに気づきました。
ただ料理を提供するだけでなく、人との関わりを通じて情緒的な価値、すなわち「この人だから」と思ってもらえる付加価値を生み出すことの喜びに魅了され、人と深く関わるキャリアを志すようになりました。
この経験が、クライアントとの信頼関係こそがコンサルティングの成果を左右するという、現在の考え方にも繋がっています。
社会人 ハウスメーカー営業で培った「寄り添った提案スタイル」
最初の挫折と気づき
人生において最も高価な買い物の一つである家づくりの、影響力とやりがいに惹かれ、ハウスメーカーの営業としてキャリアをスタートさせましたが、最初の半年間は、全く成果が出ず、仕事への充足感も得られませんでした。同エリアに配属された同期約10名の中で、私は初契約まで最も時間を要しました。
その原因は、自社製品の優位性を中心に話を進める「生産者志向」に陥っていたことでした。当時の私は「うちの家は耐震性が優れています」「断熱材は業界最高水準です」といった、商品の機能面ばかりを説明していました。
しかし、お客様との商談を繰り返す中で、お客様が本当に求めているのは、商品の性能ではなく、「その家でどのような暮らしを実現できるか」という未来のライフスタイルだということがわかりました。
先輩からの教えと思考転換
「生産者志向」を打破するきっかけになったのは、ある先輩からの「会話の主役はお客様。私たちは、お客様がまだ言葉にできない理想を商談の中で一緒に見つけ、形にしていくのが仕事だ。」というアドバイスでした。
そこで私は、お客様との対話の仕方を根本から変えました。商品説明から入るのではなく、まず「どのような暮らしを理想とされていますか」「休日はご家族でどのように過ごしたいですか」「お子様が成長した時、どのような家族の関係性を築きたいですか」といった質問から始めるようにしました。
すると、2年目の春先に単月で3棟を受注、全社若手の中で月間MVPを受賞し、成果が右肩上がりに伸びていくようになりました。
1000項目の質問リストへの対応と大型案件の受注
思考の起点を「製品」から「顧客」へと転換した私に、大きな挑戦の機会が訪れます。ある経営者のお客様と商談を進めていた際、家づくりに関する1000項目を超える膨大な質問リストを提示されたのです。
それは、土地選びから設計、施工、アフターサービスまで、家づくりの全工程にわたる極めて詳細な質問集でした。「地盤の液状化リスクはどの程度か」「30年後のメンテナンス費用の想定は」「子供の教育環境として最適な間取りは」など、お客様の期待と不安が入り混じった、解像度の高い質問リストでした。膨大な質問量と専門的な内容に、心が折れかけそうになりましたが、「お客様の想いを形にしたい」「この経験を自分の成長に繋げたい」といった強い思いから、プロセスを踏んで、最後までやりきることを心に決めました。
まず、私はこの質問リストを、経営課題と同様に捉え、全項目を「住宅性能」「資金」「設計」「デザイン」「ライフスタイル」の5つのカテゴリーに分解し、緊急度と重要度で優先順位をつけました。
そして、社内の設計、工事、インテリアコーディネータをメンバーに加え、外部の各附帯業者、金融機関、も巻き込んで、一つのプロジェクトチームを結成しました。関係者に協力を要請しながら、各課題に対する最適なソリューションを模索し、一つ一つ回答を作り上げていきました。通常では一営業担当者が一組のお客様のために早期からチームを編成するということはありませんでしたが、お客様の夢を実現するために、本格的なプロジェクトマネジメントを行う必要があると考えたため、実行することに決めました。
同時に、お客様との連絡もを継続的に重ね、いただくご質問に丁寧に回答し、新たな希望や心配事がないかを常に気にかけることで、信頼残高を積み上げていきました。
そして2か月後、私は A4で200ページに及ぶお客様の人生設計に基づいた、オーダーメイドの住宅提案書を作成しました。
成約と顧客からの信頼
提案の日、約7時間にわたる打合せの後、お客様はからこのような言葉をいただきました。「ここまで私たちの未来を自分事として考え、道筋を示してくれた人は他にいなかった。佐藤さんに任せたいです。」
その案件は、最終的に2億1000万円の大型契約となりました。しかし、それ以上に価値があったのは、お客様からの「佐藤さんなら、私たちの人生の重要な決断を安心して任せられる」という信頼の言葉と姿勢でした。
この経験から2つのことを学びました。1つ目は、複雑な課題であっても、それを冷静に分解・構造化し、周囲を巻き込みながら解決へと導いていくことの重要性。2つ目は粘り強く誠実に対応し、お客様の要望を「傾聴」することが信頼関係を構築するうえで鍵になること。
プロジェクトを前に進める「推進力」と、共感を持って話を聞く「傾聴力」、その両輪を回すことの重要性を、この案件から知ることができました。
実績
この「顧客の未来像に寄り添うヒアリング型の提案スタイル」、「課題解決アプローチ」は、再現性のある成果に繋がりました。結果として、若手営業約600名の中で月間MVPを3度受賞、新人約100名の中では年間個人成績2位という評価を得ることができました。また、自身の手法をチームに展開することで、所属営業所を全国約100拠点の中で年間目標達成率2位へと導くことにも貢献できました。また、1億円を超える物件も複数担当させていただき、多くの優れた経営者のお客様との対話を通じて、事業を成長させる上での原理原則を学ばせていただく機会に恵まれたことも、私の貴重な財産となりました。
経営戦略研究所との出会い
ハウスメーカーの営業職として経験を積む中で、私の関心は徐々に変化していきました。それは、野球や大型案件のプロジェクト運営を通じて学んだ「チーム・組織として動くことの重要性」と、前職で多くの経営者の方々から伺った「組織運営の難しさやそのやりがい」に触れる中で、より明確になったものです。
家という一つの商品を売る「点」の課題解決ももちろん重要で、やりがいを感じていましたが、組織全体の仕組みを良くしていくという「面」の課題解決の方が、より影響力が大きく、本質的ではないか、そう考えるようになり、クライアントに深く貢献できるコンサルティングという仕事に、強い興味を抱くようになりました。より本質的なレベルで寄り添ってクライアントに貢献できる環境を模索していた時、転職エージェントを介して、経営戦略研究所と出会ったのです。
面談でお会いした代表の岩渕、萩原、渡邊、中澤から語られたのは、「自社の利益ではなく、あくまでクライアントの成功を第一に考え、その成長にどこまでも寄り添う」という、徹底したクライアントファーストの姿勢でした。そして、その先にある組織と、そこにいる個人の人生そのものを豊かにしていくという強い意志に、心を揺さぶられました。私が探し求めていた理想の環境がここにあると確信し、入社を決意したのです。
歯科医院にかける想い
私が特に歯科医院の経営支援に情熱を注ぐのは、そこに多くの「機会損失」と、大きな「社会的価値」が存在すると考えるからです。多くの院長先生は、臨床技術という、専門性をお持ちですが、その価値が、組織運営やマーケティングといった経営基盤の未整備によって、十分に発揮されていないケースが少なくないという実情があります。
優れた技術と、健全で機能的な経営システムの二つが両輪となって初めて、歯科医院という組織は、持続的な成長をすることができます。私は、その支援を行い、院長先生やスタッフ一人ひとりの人生を豊かにしていくことが最終的な目標です。
時には院長先生の一番の理解者として後方から組織を支え、時には組織の先頭に立ってチームを先導する。状況に応じて自らの役割を柔軟に変えながら、医院を成功へと導くこと、それが、私の考えるコンサルティングスタイルです。
もし、先生が今、医院の未来に対して何かを変えたい、より良くしたいという想いをお持ちでしたら、ぜひ一度、お話をお聞かせください。院長先生の声に徹底的に耳を傾け、現場に寄り添いながら、培ってきた実行力を武器に、医院の成長を支援いたします。共に医院の新しい未来を切り拓ける日が来ることを、心より楽しみにしております!