
地域一番アドバイザー山口 裕介

略歴
兵庫県加古川市出身。幼少期から18年間空手に打ち込み全国大会優勝を経験。大学時代は部活動に打ち込む中、次世代燃料事業等複数の起業を経験。その経験を通じて戦略設計と組織マネジメントの重要性を痛感。大学卒業後、人材系ベンチャー企業に入社し3ヶ月目でMVPを受賞。その後、東証一部上場の大手化粧品メーカーへ転職し、美容院へのコンサルティングを6年間行う。そこで年商7,000万円から5億円への成長店づくりや51軒の地域一番化に貢献。その実績が評価され、スタッフの人時生産性向上を目的とした全社プロジェクトリーダーに抜擢。その翌年に本社の経営戦略部に配属され、全社戦略策定や数億円規模のプロジェクトを統括する経験を積む。こうした成功と失敗の両面で得た「戦略設計力」や「組織構築力」と成果を出すための「伴走力」を武器に、2025年より経営戦略研究所に参画。
山口をより知って頂く為に
幼少期
私は兵庫県加古川市という田舎で生まれ育ちました。家族は、看護師として早朝から晩まで働く母、そして4つ下の弟、私を含めた3人暮らし。いわゆる母子家庭で、経済的に恵まれた家庭ではありませんでした。 母は誰よりも早く目を覚まし、疲れた体を引きずりながらも病院へ向かう。そんな母に気を使って、朝ごはんや自転車は「いらない」と我慢していました。
しかし、母は私がやりたいと思った習い事や環境を惜しまず整えてくれました。金銭的には苦しいはずなのに、「行きたい場所があればいつでも連れて行ってくれる」――そんな母の姿には、当時の私も幼心ながらに大きな愛情を感じていました。
そしてもう一つ、私の子ども時代を語るうえで欠かせないのが祖父母の存在です。毎週末になると、友人と祖父母の家に遊びに行くのが習慣でした。何人連れて行っても文句ひとつ言われないばかりか、祖父母は一人ひとりの友人とのコミュニケーションを楽しそうにとってくれました。
特に祖母は、60歳を過ぎてもバク転ができるほどパワフルで、私たちを盛り上げてくれたものです。そうした祖父母の影響もあってか、私は幼い頃から友達も多く、学校生活においては不自由を感じることはほとんどありませんでした。今でも小学生時代の友人たちとは年に2回以上は旅行に出かけるほど仲が良いのは、祖父母が作ってくれたあの自由で温かい環境のおかげなのかもしれません。
空手に鍛えられた体力と精神力
そんな私が4歳から続けてきたのが、空手道です。実のところ空手は大嫌いでした。練習は週5日で18時から22時まで。さらに月一回は土曜日の合宿があり、別の道場へ遠征し朝から晩まで練習していました。その結果、小学4年生の時に全国大会で優勝するほど上達していました。しかし、「辞めたい」と毎日思い続けていました。稽古前になるとストレスでお腹が痛み、夕食の味はまったく感じなかったことまで覚えています。
あの強烈なストレス環境は、幼い私にとって大きな苦しみでした。しかし今となっては、その経験こそが私に強い忍耐力と、たとえ辛い状況にあっても淡々と続けられるメンタル、そして何より「しつこいほどの粘り強さ」を与えてくれたと感じています。当時は辛かったですが、この経験には本当に感謝しています。
中学時代:「落ちこぼれから12時間学習で人生が大きく変わる」
運動面で恵まれた一方、勉強面ではいわゆる「落ちこぼれ」でした。中学では全校生徒183人中、常に180位前後をさまよっていました。しかし、いざ高校受験を控え、行きたい高校を探し始めてみると、とある高校に強烈に惹かれたのです。
その高校は、入学方法が推薦のみの特別な理数系学科を持っており、「毎日4時間以上の研究」「卒業論文の提出」が必須というとても変わった教育課程でした。実は、勉強が得意ではなかったものの、将来は研究者になりたいという夢を持っていました。というのも、小学3年生のときに見た微生物の世界に強烈な興味があったからです。
そんな私が「この高校にどうしても行きたい!」と強烈に思い、中学3年生の2月から「今日から勉強して絶対ここに合格する!」と周囲に宣言しました。宣言をした2月からの8ヶ月間、先生に作っていただいたカリキュラムをすべて素直に実行し1日12時間以上の学習を1日も欠かさず続けました。すると面白いように成績が上がり、ついには中学でトップの成績になったのです。さらに、中学でも空手の全国大会に出場していたことや、高い内申点も加味されて、私は無事に憧れの高校へ合格できました。わずか数ヶ月で人生が変わった、と実感した最初の転機だったかもしれません。
高校時代:「一生の後悔とその克服」
こうして進学した高校は、まさに私が夢見た「研究を思う存分行える場所」でした。小学生から漠然と憧れていた「白衣を着て研究に没頭する」生活がいきなり実現し私はとても充実した毎日を送っていました。
ところが、高校2年生のある日、私の人生を一変させる事件が起こります。大好きだった祖母が亡くなったのです。
9月にしては少し肌寒い月曜日の19時頃だったことを記憶しています。自宅の電話が鳴り、祖母からの電話でした。「刺された」と。夫婦喧嘩でした。刺されたといっても、電話をかけられるぐらいなので、私は「大したことないんだろう。」と淡い希望を抱きました。しかし、その日のうちに出血多量で帰らぬ人になりました。
祖父の気性が荒かったこともあり、「もしかするといつか何かが起こるのでは」と薄々考えていたにもかかわらず何もできなかった――この悔しさから、私は「何か事前に手が打てたのではないか」とひたすら自分を責める日々を過ごしました。1年間ほど後悔と喪失感で身動きも取れず、屍のように日常をこなすだけになってしまいます。
このときの後悔と苦しみが、私の人格を大きく変えました。
1つは「いつ何が起こるか分からないからこそ、常に最悪のシナリオを想定し、後悔しないよう最善手を打つ」ようになったこと。2つ目は、「目の前にいる人一人ひとりを全力で大切にしよう」という決意です。それまで私はどうしても気の合う人だけを優先しがちでした。しかし祖母の死を機に、「家族や友人、同僚など、関わる全ての人が幸せに、安全に暮らしてほしい」という想いが芽生え、結果として周囲への愛情とリーダーシップが育まれたのだと思います。
高校3年生では、生徒会長に就任したのもこの変化の表れでした。私はさまざまな規則変更に挑戦しました。その中で最も印象的なのは「制服から私服への移行」です。私自身は「個性を大切にするためには私服OKのほうがいい」と考え規則変更したのですが、いざ運用が始まると「毎日服を考えるのが面倒」などといった生徒からの批判の声が相次ぎ、わずか2ヶ月で廃止。「自分が良いと思うことでも、他人にとっては良いとは限らない」という当たり前の事実を心から痛感させられました。
一方、研究面では“微生物を活用した創薬“に関する大きな研究テーマに打ち込みました。全国に点在する類似の研究高校の方々と共同プロジェクトを組んだりするなど、全国の多士済済のメンバーと共に最高の環境で好きなことに打ち込み、非常に刺激的な経験を積むことができました。
しかし、高校3年生の私には厳しい現実が待ち受けていました。それは“大学受験”です。
私は研究に没頭しすぎて勉強をほとんどしていませんでした。結果、行きたい研究室があった大学には落ちてしまい、経済的に浪人する余裕もなかった私に残された道は“就職”しかありませんでした。
高卒で就職ということは、夢である研究者にもなれない。――どうしようか絶望していると、高校の先生が私の家庭環境を考慮し、好意で大学へ推薦文を書いてくださっており、スポーツ特待枠で直談判しておいてくれたのです。結果として私はスポーツ特待で大学への進学を叶えることができました。この恩師の機転がなければ、私の人生はどうなっていたか分かりません。そういった意味では、高校入試に続き、大学入試でも人によって人生を救われたのだと思います。
大学時代「部活・研究・投資・起業…四つの挑戦」
大学に入学してからの4年間はとても充実していました。
大きく4つのテーマで彩られます。それが、部活動│研究│株式投資との出会い│起業への挑戦です。
まず、部活動について。私の学部の研究棟は奈良の山奥にあり、本校舎がある大阪とは離れた場所にありました。バイクで往復3時間をかけて道場へ通うのは大変で、冬の深夜に凍えながら山道を走った記憶は今でも鮮明です。また、大学の空手部は全国の有名選手が集まり、当時全国16連覇を誇る超強豪。高校時代までの“自己流”が通用せず、怪我も頻発し、骨折や靭帯損傷を何度も起こしてしまいました。
団体戦には2つ下の後輩が選ばれる中、私は補欠にも選ばれず屈辱を味わいました。
しかし、そんな屈辱感の中でも成功体験がありました。負ければ引退となる大会で、利き足の甲を骨折した状態にて意地で出場。そこで見事優勝して全国大会に出場できたことは、大きな誇りになりました。このエピソードで、私は「どんな逆境でも克服できる」自信をさらに深めたのです。
次に、研究です。高校から引き続き、私は研究に没頭しました。研究テーマは“マツタケの人工培養に関する研究”です。研究の結果、私の論文はドクターにも引用されるほどになりました。研究者として一定の成果を出せたことは、小学生からの夢に対する大きな達成感になりました。
3つ目は株式投資との出会いです。大学の友人が「50万円儲けた!」と言っていたのを聞き、興味を持ちました。私はスポーツ特待の制約でアルバイトができず、奨学金生活だったのですが、学費免除があったために多少の余剰資金がありました。そこから投資を始めると、自分なりの手法を確立し、着実に利益を上げられるようになったのです。当時60歳までに到達しようと思っていた目標額は早々に達成してしまいました。すると逆に、私は虚無感に襲われます。「これ以上、何を目指せばいいのだろう」と。
そこで「社会課題を解決できることをしたい」という想いが強まり、4つ目の取り組みとして友人と共に起業しました。特に面白かったテーマは2つあり、1つ目は日本の国土面積の66%を占める、“山”の資産価値を高めるビジネスです。航空写真から電柱や公共施設ができる確率を予測して価値評価をしたり、生えている木の価値を算定して売買する仕組みをつくりました。結論から申し上げると、この事業は約1年で撤退しました。理由は、“人材”です。ビジネスモデル上の要となるITスキルをもった一人の人材に依存したのです。「絶対に降りてもらったら困る」この思いが個性の尊重につながり、次第に彼の態度を横暴にさせ、協調が取れなくなりました。結果、想定よりIT化が進まなかったことによって撤退しました。
次に、次世代エネルギーになるだろうと踏んだ「アンモニア」のプラント事業に出資しました。しかし、アンモニアを燃料として使う前提となるNOx(窒素酸化物=酸性雨の原因となる物質)の制御が想定より難しく、撤退となりました。
上記2つの失敗は、先進的なアイデアがあっても「人材」「市場環境」といった基盤が整っていなければ、思い通りに進まないという教訓を与えてくれました。特に人材という面では、“たった一人”が組織を崩壊させるということを、身を以て学びました。若いうちにこのような失敗経験ができたことを前向きに捉えています。
歯科医院の経営においても同様です。デジタル化や新技術・新制度の導入は、未来への大きな可能性を秘めていますが、慎重な現状分析、人材の意識と技術的成長が伴わなければせっかくの投資が無駄になりかねません。
「確かな土台の上にこそ、真の革新が築かれる」この視点を複数の事業撤退により、理解しました。
社会人へ「人材業界と化粧品メーカーでのコンサル実績」
さて、研究者になることが夢だった私は、高校生から研究を行い一定の成果を出しながらも、大学卒業後は大学院に進まず、研究者の道を選びませんでした。その理由は大きく2つあります。
1つは「研究でやりたいことは一通りやりきった」という満足感。もう1つは、「いつ・誰の役に立つか分からない研究より、もっと直接的に、今生きている人の人生を良くしたい」という思いが強くなったからです。
一方、株式投資である程度の資金を得たあと、全国の高級旅館に行くという夢も叶えてしまい、むしろ鬱のようになってしまいました。何を目標に生きればいいのか分からず、「どこかの慈善団体に寄付をしてこの世から消えてしまおうか」と本気で考えていました。そんな私が、とある本に出会います。「最高の脳で働く方法(和訳)」という本です。その本は、人が幸せになる思考法が書かれた海外では有名な本です。最初の数ページで、言い表しようのないパラダイムシフトが起こりました。その本を最初から最後まで涙を流しながら、寝る間を惜しんで丸5日かけて読んだのを覚えています。
この本との出会いを機に、様々な発想が自分軸から社会軸へ変わりました。「関わる一人ひとりを幸せにするし、自分も幸せになる」という、人生の新たな方向性が定まりました。
1対1で人の役に立つ仕事をしたいと思うようになり、人材業界を選択。ベンチャー企業に入社することになります。ここで私は、求職者一人ひとりの強みを徹底的に掘り起こし、求職者と休みの日も面接の練習を重ねました。その結果、私の紹介による内定率は100%を維持したり、入社たった3ヶ月で月間MVPを受賞することができ、とてもやりがいを感じていました。しかし、会社自体は経費の使い方が荒く、結果的にその会社は半年で給料の支払いが滞り1年後には廃業しています。社員すら幸せにできない組織には共感できず、私は別の道を探します。続いて転職したのが、東証一部上場の大手化粧品メーカー。メーカーなのに、「商品を売らない。クライアントのためになることなら何をやってもいい」という行動方針があり、私は「ここに就職したい」と惚れ込んでいました。
そこで6年間、美容院のコンサルティングをすることになります。最初の2年間は周囲があまりにも優秀で、自分の不甲斐なさを痛感していました。なにをやっても貢献できている感じがしない。業績が上がっていても、「これは私の力ではないのでは?」そんな葛藤の中、1軒の美容院で大きな貢献したことを機に、私の意識と行動、社内外での見られ方がガラッと変わります。
年商7,000万円から5億円への急成長に貢献
この美容院で私が改革したことは2点です。1点目は離職率の低減です。私が担当した当初、スタッフ様の3年離職率が100%でした。オーナーはそのストレスが原因で顔面麻痺になるほど追い詰められていました。その時の表情を見た時、このままだと自殺してしまうのではと最悪の想定をしました。そう直感した私はそれを未然に防げるよう、打てる手を考えました。まずはじっくりと現場で要因分析をしました。「悪いスタッフがいるのかな?忙しすぎるのかな?」と。結果、原因はオーナー自身にありました。
オーナーは頭脳明晰で経営手腕のある方でしたが、スタッフとのコミュニケーションに難があり、些細なミスで厳しく叱るために恐れられていたのです。私は大学時代の起業経験から、“たった一人”が組織を崩壊させることを学んでいました。その“たった一人”がオーナー自身であることを伝えました。打ち手として取り組んだのが、経営計画書の策定です。ただし、オーナーと私だけで作るのではなく、スタッフ全員参加型で作り上げました。オーナーの生い立ちや経営理念、スタッフのキャリア設計や評価制度の改善など、さまざまな要素を計画書に落とし込み、メンバー全員で作り上げるプロセスを重視しました。当初スタッフは嫌々参加でしたが、営業時間中の開催ということもあり徐々に乗り気になってきます。すると最初に起こったことが、スタッフの意識変化です。その要因は2点あり、(1)オーナーの生い立ちや価値観を知り、オーナーに感情移入したこと。(2)会社の方向性や評価制度、キャリアパスが明確になったことで美容師として活躍するイメージが湧いたことです。スタッフの意識が変わるとオーナーのスタッフへの感情も変化しました。スタッフに対して愛情を持って接するようになり、スタッフもオーナーのことが大好きになるという好意の循環が起こりました。結果、3年離職率は10%以下(ネガティブな理由での退職は0名)まで改善。退職がなくなったことで、年間6名の社員純増に伴い、1年1店舗のペースで出店できるようになりました。
「スタッフと談笑しながら、経営計画を一緒に作っただけ」で美容院が飛躍的に成長する様子を目の当たりにし、私自身も大きなやりがいを感じました。
2点目は顧客単価の増加です。この美容院ではもともと集客面に困っていなかったため、顧客一人当たりの単価を伸ばすことが売上アップのカギとなりました。そこで注目したのが、物販の強化でした。美容院で販売されるヘアケア剤などは1ヶ月分で3,000円以上と高額なため、スタッフが「押し売り」に感じてしまうケースが多いのが課題でした。スタッフには「物販=お客様の美と人生に貢献するための提案」であることを徹底的に理解してもらいました。確かに価格は高いですが、それによって髪がキレイになれば、お客様の美意識や日々の自信に変わります。スタッフの意識が変わると自然に“押し売り感”がなくなり、多くのお客様から「ここなら信頼して相談できる」という声が増加。ついにはスタッフ一人当たり60万円の物販売上を達成する月も出てくるほどになりました。
当時は小さな美容院だったのが、いまや業界の経営者なら誰でも知る有名店にまで飛躍しました。
このように「人材定着」と「顧客単価増」の2つを軸でアプローチすることで、年商7,000万円から5年後に5億円という大幅な伸びを遂げました。結果的にオーナーだけでなくスタッフ全員が笑顔になり、美容院としての存在感も飛躍的に高まる。この成功体験が、私自身のコンサルタント人生における大きなモチベーションとなりました。
そのような実績から、私自身の意識や行動も変わります。最年少でDX関係の全社プロジェクトメンバーに選任され、またその翌年には“スタッフの人時生産性向上”を目的とした全社プロジェクトのリーダーに抜擢されます。美容院への貢献という側面でも、担当している美容院70軒の平均成長率を117%/年まで引き上げ、累計で51軒の地域一番化をするほどの成果を出せるようになったのです。
そのような実績が評価されたことで本社の経営戦略部へ抜擢され、会長・社長直下で3つの大きな業務を担当します。(1)全社戦略の立案│(2)大手企業(年商数兆円クラス)2社との協業案件│(3)社内プロジェクトのPMO(プロジェクトマネージャー)業務です。
1,000名を超える会社を戦略で動かす経験は、視座の高さや企画者としての大きな成長に繋がり、毎日がとても充実していました。しかし、ふと気づいたのです。私が本当に求めていたのは「目の前の一人ひとりを直接変えていく」ことではなかったかと。経営企画の仕事は、長期的には何億人もの人生に影響を与える可能性のある、やりがいが大きな仕事です。しかし、私が大切にしていたのは「直接、目の前の人を幸せにする」ことであり、少し距離を感じてしまったのです。
経営戦略研究所との出会い
前職については「やりがいは大きいし、一生続ける」そんな意識の中、たまたま出会ったのが当社の萩原です。萩原から歯科医院に対する思いや、業務内容を聞くうちに、「歯科医院も美容院と同じく、店舗経営でありながらマネジメントとマーケティングで多くの課題を抱えている。そこを360度あらゆる角度から支援し、本質的に経営を良くしていくのがウチの仕事だ」という話に惹かれたのです。しかも、「どれだけクライアントに貢献できたか」を評価軸にしている――これこそ私がずっと求めていた環境だったのです。
最初は転職なんて考えていませんでしたが、話を聞けば聞くほど、ここが自分の“天職”だと感じ、3ヶ月間の葛藤の末、入社を決意しました。萩原との出会いがなければ、生涯美容業界に人生をかけていたと思います。そのような中で歯科業界に入った理由は、人材業や美容院コンサル、経営企画として成果を出してきたノウハウや情熱は、きっと歯科医院で一人ひとりの人生に貢献できるはずだと確信していたからです。
歯科医院にかける想い
経営改革には痛みが伴います。何かを変えるためには、その原因に大胆にメスを入れなければならず、全員が「こんなに苦しいことをするなんて…」と思う局面が必ずあります。それでも、患者さんの治療と同じで、放置すればいつか取り返しのつかないことになるかもしれない。だからこそ、最短・最小の力で根本原因を特定し、痛みを伴ってでも抜本的に正す。私もその痛みを一緒に背負い、伴走するのが役割だと考えています。
私は美容院のコンサルで、多くのオーナーやスタッフさんと“痛み”を乗り越え、51軒もの地域一番化に貢献してきました。歯科医院でも正しい分析と戦略、そして粘り強い実行さえあれば劇的な結果が生まれると考えています。
そして、私の最終的なゴールは、先生やスタッフの皆さま、さらにはそのご家族までが心から幸せを感じ、ほんの数年で「人生が変わった」と思える状態をつくることです。歯科という医療現場は、患者さんに直接寄り添う仕事であり、その使命感は非常に尊い。だからこそ、経営がうまくいけばスタッフが安心して働けるようになり、患者さんへのサービス向上にもつながっていく。私はこの「幸せの好循環」を、一緒に創り上げたいのです。その結果、院長だけでなくスタッフやそのご家族までもが幸せになってくれたら、これほど嬉しいことはありません。
文章だけでは「信じてください」とは言いません。まずは会話をし、一緒に行動し、小さな気付きと成功を積み重ねたときこそ、本当の信頼関係が生まれると考えています。もしこの自己紹介を読んで、少しでもご興味を持っていただけたなら、ぜひ一度お話を聞かせてください。私は冷静なロジックと内なる情熱を燃やしながら、最短距離で理想の姿に変えていくお手伝いをすることをお約束します。
以上