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地域一番プロデューサー岡本 雅史

略歴

東京都府中市出身。小学校4年からラグビーを始める。幼い頃からの夢である日本一を目指し、名門・早稲田大学ラグビー部へ入部。大学3年時から1軍としてアカクロジャージに袖を通し、4年時には13年ぶりとなる大学日本一へ貢献。卒業後、リクルートの求人部門へ入社。入社1年目から新規事業を立ち上げ軌道に乗せるなど、数々の実績からチーフに昇格し、当時の最短昇格記録を樹立する。

その後は、チーフとしてチームを全国No.1に導くなど、数々の賞を受賞。また、自らが育てた新卒が、全社MVPになるなど、「売上実績」と「育成」の両軸で成果を出す。その後、新たなステージを求め、会計保守コンサルタントに転職。日本を代表する大手企業をクライアントとして、資産管理などの業務改善を行なう。

リクルート時代の同期である萩原直樹が経営戦略研究所に入社したことで、歯科医院地域一番実践会の存在を知る。岩渕龍正が掲げる理念・仕事観に強く共鳴し、入社に至る。ラグビーや過去の経験から得た行動力マーケティング力育成力を活かしたコンサルティングを提供して、全国の歯科医院を地域一番に導く。

・家族構成:妻、6歳の息子、3歳の娘 ・趣味:離島めぐり(沖縄や伊豆七島) ・目標① :サポートする全ての医院が、圧倒的な地域一番歯科医院となること ・目標② :娘が大きくなった時に運動会で「お父さん、かっこいいね」と言われる(現在、肉体改造中)

岡本をより知っていただく為に

幼少期

私は小さな頃から体が大きく、クラスで背の順で並ぶときには必ず一番後ろ。 とにかく活発で、あまり家の中で遊んでいた記憶がありません。 そのため大きな怪我も数知れず、

・家に送られてきたアイスを食べるよりもアイスの箱に入っていたドライアイスに興味を持ち、こっそり持ち出して公園で瓶につめて遊んでいたら爆発して、手のひらがボロボロ事件
・大きなコンクリート製のすべり台(高さ3mくらい)の上で逆立ちして、そのまま顔から落下して顔面血まみれ事件
・鉄棒の上で綱渡りをして足を踏み外し、顎が膝にぶつかった衝撃で前歯が下唇を突き破ってこんにちは事件

など、今考えてもこうして立派に成人できていることが奇跡であり、丈夫な体に生んでくれた親に感謝しています。

母からはとても大きな愛情で育ててもらいましたが、父は典型的な仕事人で、ほとんど家にいませんでした。もしかすると先にあげた衝撃的な事件の存在も知らないかもしれないくらいです。

そのため、小さい頃の記憶はほとんどが母とのものであり、正直父の事はあまりよく思っていませんでしたし、あまり会話もなかったように思います。

そんな子供が中学生になると、お決まりのように素行の良くないグループに属するようになります。髪を赤く染めて(当時スラムダンクの連載が始まったばかりでした)陸上部をクビになったり、他校の生徒と一悶着おこしたりする一方で、勉強は得意だったので成績もよく、先生にしてみれば非常に扱いにくい生徒だったと思います。

ラグビーとの出会い

一方で、習い事は兄の影響でお囃子や公文、ボーイスカウトなどいろいろとチャレンジしてみたものの何をやっても興味が長続きせずに、すぐ辞めてしまっていたのですが、唯一小学校4年から始めたラグビーだけは続けることができました。

たまたま見学にいった地域のラグビースクールでボールを持たされ 「ちょっと投げてみて」「おー!すごい!初めてでこんなにうまく投げられる子いないよ!」「ラグビーをやるために生まれてきたんじゃないか!」 とおだてられ、すっかりやる気になりました。子供って単純ですよね(笑)

でも褒められて嫌な気になる子供なんていませんし、体も大きかったのでスグにレギュラーになり、どっぷりとラグビーにはまっていきました。 特に、大学ラグビーは一番の花形で、いつかは自分も国立競技場でプレイしたい!と思うまでにはそれほど時間はかからなかったと思います。

小学校6年生時には、木製の小物入れに彫刻刀で好きな絵柄を掘っていくという図工の課題で、箱の各面に「久我山」「明治」「東芝」と当時の高校・大学・社会人の日本一のチームを刻み込み、いつかは自分も日本一になりたい、と強く思うようになっていました。

中学の時に、私が不良グループに属しながらも、最終的に道を踏み外さなかったのは、「ラグビーで日本一になる」という大きな目標があったからだと思います。

高校受験時になっても、相変わらず大学ラグビーは明治大学がNo.1だったのですが、そのNo.1チームに小さな体で立ち向かう早稲田のスタイルがカッコいい!と思い、早稲田大学の付属高校を受験することにしました。

偏差値はまったく届いていなかったのですが、運よくこの年度からスポーツ推薦が始まる事になったため、ラグビースクールの東京都選抜に選ばれた実績を引っ提げて受験当日を迎えました。

ところが運悪く私は1週間前から水疱瘡にかかってしまっていたのです。学校に連絡したところ、隔離した別室で受験はさせてもらえる事になったのですが、かゆいし熱はあるしで散々な結果となり、当然不合格でした。

しかし、頭の中は早稲田大学でラグビーをしている自分を思い描いています。ここから一般受験に向けて、人生で一番の猛勉強をしました。

明治大学付属高校のラグビー推薦を断り、この受験に失敗したらニュージーランドにラグビー留学するから、と親に宣言して背水の陣で挑んだ受験はなんとか無事に合格することができました。受験当日は大学の講堂での試験だったため「3年後に明治大学を倒しにここに来ます」と机に落書きを残したのもいい思い出です。

その後、高校のラグビー部はまったくの無名だったのですが、3年の時にはキャプテンとして都大会ベスト16に導き、そしてついに憧れの早稲田大学ラグビー部に入部しました。

1か月間は「新人練習」と呼ばれる厳しい基礎練習が続き、基準に達しない人は先輩から「明日からこなくていいよ」と告げられ、その年のチャレンジは終了となってしまいます。なんとか必死でしがみつき、入部を許された後は強豪校出身の仲間と切磋琢磨しながら、大学3年時からは1軍の試合にも出ることができました。

母親は中学も高校も試合を見に来てくれていましたが、この頃からは父親も試合を見に来てくれるようになりました。最初はラグビーに関する会話だけでしたが、徐々にラグビーを通して普通の親子のような関係に戻ってきたのです。

そして大学4年時、私たちのチームは大学選手権で13年ぶりに優勝することができました。全部員がグラウンドに駆け降り、優勝した時にしか歌えない「荒ぶる」という部歌を歌いながら涙を流している部員たちを、どこか冷静に見ている自分がいました。私はその優勝を決める試合のグラウンドに、選手として立つことができなかったからです。

大学ラグビーで日本一になる、という10歳からの目標は12年後に叶える事ができました。 しかし、大学ラグビーで日本一になる試合に、レギュラーとして出場する、という明確な目標を立てていなかったために、悔しい思いをしたのです。

「目標を明確にすれば達成できる。しかし、明確にした目標以上の事は成し遂げることはできない。」

という事を身を以て感じることができました。 それ以降、自分が主語ではない目標では、自分がどのように関わるのかまで明確に目標に落とし込むようにしています。

より高い目標を持つ

リクルートの求人部門に入社した後も、「売り上げ目標」ではなく「やりきり目標」という目標以上の目標を持つことで高い成果を出し続け、また、入社1年後には自らの成長のために群馬県での新規媒体創刊に手を挙げて異動しました。

私とチーフ、拠点長以外は全員入社3か月の新人という環境で私に求められていたのは「圧倒的な成果」と「後輩の育成」です。年齢は高卒から30代後半の方までのさまざまな「後輩」と同行を行いつつ、自らの営業も行いました。

群馬県は気象も荒く冬は冷たい空っ風の中を自転車で必死に突き進み、夏はカミナリがドッカンドッカン落ちるので、内勤スタッフから「避難してください!」とメールが来る中を必死で営業しました。

しかし地元ではオンリーワンともいえる地場の求人会社があり、実績もない新規媒体には見向きもしてくれません。 この仕事をする中で、初めて辛い、辞めたい、と思うようになりました。

営業の成果が出ない事を、「教育もやってるんだから当然だ」というスタンスで考えていた私は上司を呼び出し、「自分の営業と、後輩の教育。どっちに注力すればいいかわからない!どっちをやればいいんだ!」と問い詰めました。

その時に帰ってきた答えは

「俺は岡本に両方を求めてるんだよ。チーフの仕事はチーフがするんじゃない。チーフの仕事をした奴がチーフになるんだ!

ショックでした。

上司は自分の成長を願っていたのに自分は文句ばかりで、東京にいるときと、何も変わっていない。何のために自分は手を挙げてここに来たんだ。そう考えると無性に恥ずかしくなりました。

翌日からは、同行も今まで以上に積極的に行い、社内では勉強会を開き、個人の営業でも一番遅くまで飛び込み営業を続け、徐々に成果も出始め、拠点としても軌道に乗ってきました。

始めから1年間限定の異動であったため、1年後には東京に戻ってきたのですが、チーフに昇格して戻ってくることができました。後から聞きましたが、入社から最短でのチーフ昇格だったようです。

その後は首都圏でチーフとしてチームで営業を行う「チームセリング」新卒の育成個人の営業でも官公庁などを相手に「面白い仕事」を意識して取り組みを行い、結果も出していたのですが、 個人の力をもっと伸ばせる環境を求めて転職しました。

挑戦のための転職

次の仕事は会計コンサルタントという、パッケージソフトを購入した企業の主に資産管理業務を改善、サポートする仕事です。

研修は非常にハードで「〇〇という言語を使ってXXというソフトを開発してください」という紙を渡されるだけで、仕様から自分で考えて設計を行うという、問題解決能力と、新しい取り組みに柔軟に対応できる力が求められるものでした。

しかし必死に言語を勉強してプログラミングを行う中でも、「自分でものを作り出すことの楽しさ」を感じることができ、同期84人中6番目に研修をクリアすることが出来ました。 (ちなみにこの研修はクリアできないと正式な入社ができない、雇用期間限定の採用であったため、同期84名中入社できたのは30名程度の厳しいものでした。)

入社後は週に3~4日会社に泊まり込むような生活が3か月程続きましたが、新しい取り組みへのワクワク感と、自分の成長のためにできる事はすべてやってやる!と考えていたので苦だとは思いませんでした。

特に、システムを使った業務の効率化や、プロジェクトの進め方など、今までの自分にはない視点の学びが多く、とても充実した日々を送ることができました。

その後、日本を代表する商社やディーラー、プロバイダーなど多数のお客様の法改正やIFRS対応といった資産管理に関わる業務のサポートを行いながら、自社内の仕組み化や、保守サービスの標準化などの仕事も担当し、少なからず「日本を動かす企業を自分が支えている」といった誇りや、やりがいも感じていました。

仕事観の確立

しかし徐々に、自分の仕事の意義を見失っていました。それは、会計ソフトという商品の範囲の中でしかお客様の悩みの解決方法がない、というジレンマからくるものです。

時間をかけて「人間力」で対応すればお客様の満足度は上がるけれども、会社としてはコストが上がるのでOKはでません。ソフトが不正な動きをすれば徹夜で対応して解決しても、お客様は怒りをあらわにすることはあっても、感謝されることはほとんどありませんでした。

この仕事で「ありがとう」と言われた事は何回あるだろうか。

そう感じていた矢先にで出会ったのが経営戦略研究所でした。友人の萩原直樹、そして社長の岩渕と話をするうちに、自分の仕事観が明確になってきました

「仕事を通して関わる人たち全員を幸せにしたい。そして、人を幸せにする力は、自分の成長なくしてありえない」

それが自分の仕事観であると認識することができました。

自分が成長することでお客様が幸せになり、結果会社も幸せになる。その「仕事観」を実現できる場として経営戦略研究所を選び、現在は皆様により多くの気付きを与える事で、より充実した人生を送って頂けるコンサルタントになるべく、日々精進しております。