地域一番ディレクター 五十嵐 康浩

略歴

福島県会津若松市出身
家業が住宅設備系の自営業だったこともあり、大学卒業後は、家業を継ぐ前提で注文住宅のハウスメーカーの施工管理職で入社。しかし、入社半年で、まさかの会社が倒産。そこからは新規一転、自身の夢であったアパレル業界へ飛び込み、大手アパレルメーカーの販売職として、当時最短、入社1年半で店長職に抜擢。2期連続赤字であった店舗を1年目から2期連続の黒字化。全2000店舗中、優秀店舗10店舗にまで選出、全社総会にて成功事例として表彰・全体共有される。

その後、人生の大きな転機もあり、「もっと世の中に影響力のある人間になりたい!」、「厳しい環境に身を置いて急激に成長したい!」という思いから、リクルートへ入社。個人事業主~大手上場企業など、幅広い領域で人材を通じ、顧客の業績にコミット。自身の営業成績としては、最も売上目標の高いSクラス部門で、最優秀営業賞を獲得。合わせて2年連続のグランドスラム(通期目標)を達成する

34歳となり、さらなる成功体験を積みたいと考え、ITベンチャーの企画職として転職するものの、顧客の声を軽視した売上主義の経営方針に共感できず、在籍1年半で転職を考える。

そんな中、リクルート時代の先輩経由で弊社の岡本と出会い、経営戦略研究所のことを知る。岩渕、渡邊とも直接話を聞く中で、自社の売上を追うのではなく、クライアントの幸せのために全力でコミットするという会社の考え方に強く共感。医院の経営に深いところまで関わり、全力で支援しながら自分を磨き上げたいと考え、入社を決意する。

五十嵐 康浩をより知って頂くために

幼少期

正直、周りから見たら、ちょっと変わった子。そんな幼少期でした。実家は、地元では中堅規模の設備工事会社を営んでおり、ちょっとしたお坊ちゃんでした。人と話すのが苦手で、あまり外に出たがらない上に、男の子が好きな【戦隊もの】、【仮面ライダー】【ウルトラマン】は、出てくる怪人が怖すぎて見れないという始末。なので、盛り上がる話題もなく、関わろうともしないので、友達も極端に少なく、なかなかのマイナス思考な子供でした。

そんな中、1つの転機がありました。忘れもしない小学3年生の春です。これまでの私の人と関わろうとしない態度に、祖父が危惧し、無理やりにボーイスカウトへ入団(小学3年~5年生はカブスカウト)させたのです。当時の私からしたら、泣き叫ぶくらいありえない環境でした。なぜなら、家に引きこもっていた子が、急に中学生や小学校高学年の男子たちと一緒に、夏は4泊5日のガチキャンプ、冬は泊まり込みのスキー合宿、春・秋は街頭での募金活動やナイトハイキングへ強制的にかり出されたからです。はじめの内は、毎回いく度にトラウマになるかと思うほど、苦痛しかありませんでした。 ただ、その中でも唯一スキーには興味持ちます。引率者の中に、たまたま、インストラクターの方がおり、基礎基本から叩き込んで貰うことに。結構スパルタだった記憶もありますが、年に数回いくだけで、小学生5学年では余裕で急斜面をパラレルで滑れるようになります。初めて継続して努力すること、基礎基本の重要さを体感しました。

その甲斐あってか、新しいことに挑戦したいと思えるようになり、行動する、努力し続けることで成果を上げることができるようになっていました。成果として、小学5年生の夏には自ら水泳部に入部。誰よりも練習に参加するように。ベストタイムも学年で20位以下から3位まで伸び(成長期と重なったこともありますが)、それがキッカケで顧問の先生から見初められ、秋は陸上部、冬はスキー部で活動することになりました。特に陸上では、50mハードルに挑戦し、その年の秋のみの練習参加だけで、市の大会3位入賞。県大会まで行くことができ、初めて人生の成功体験を積むことができました。その恩師の勧めで、中学へ入っても水泳部へは続け、ボーイスカウトも継続。高校では服飾に興味をもち、あくまで趣味の範囲ですが、Tシャツ制作をしたり、スタイリングについて学んだりと、色々なことに挑戦していました。良い仲間とも出会え、順風満帆な学生生活でした。

いきなりのターニングポイント

「会社が倒産する。申し訳ないが、来月で退職してくれ」
新卒入社して半年が経過した際、部長より言われた言葉です。

当時、新卒就職氷河期時代。正直、私の通っていた大学の偏差値は、誇れるようなものではなく、劣等感を持ちながらの就職活動でした。そんな中で、死にもの狂いで勝ち取った内定。財閥系の子会社で、おもに、有名芸能人や高所得者を顧客にもつ注文住宅メーカーでの施工管理職でした。営業職などに比べ、技術職での採用は難易度が高い為、学歴でなく、努力をし続けてきたポテンシャルで選んでもらえたことに、強い自信を覚えました。まさにこれから、やってやるというヤル気に満ちた時期でした。

そんな中、入社して初めて迎えた7月の全社総会。発表されたのが、まさかの倒産発表でした。
発表があってから聞いた話ですが、もともと3月には買収される予定だったが、業績が思うようにふるわず、結局は買い手がつかないまま新卒採用を惰性で続け、最悪の事態を向かえたとのこと。正直、すぐには理解できませんでした。

今これを読んでいる方の中には、新卒なら、次なんてすぐ見つかるでしょ?そんな深刻なことなんてないじゃない?と思われる方もいるかもしれません。

確かに、選ばなければ仕事はあるとは思います。しかし、世間なんて知らない中でも、悩みに悩んだ上で決めた進路です。信じて選んた会社に裏切られた喪失感と、社宅に住んでいたので、家を追い出される上、収入もなくなるという不安が重なり、これから何をどうしていったらいいんだろうと絶望したのを今でも覚えています。

ただ、一応は、財閥系の子会社だったこともあり、親会社が就職支援をしてくれました。大手不動産仲介の会社から内定を頂きましたが、なんかしっくりこないという拗ねた子供のような理由で断ってしまいました。(正直、その後にだいぶ後悔しましたが…)そこからは、自分さがしという理由をつけ、派遣スタッフとして、その日暮らしの様な生活をしていました。毎日、自分を解雇した会社のせいにして、ただ言われた作業を何も考えずこなす。お金のため、生活のためだけに働く毎日。なんの成長感もなく、月収は14万円。貯金なしのジリ貧最低な生活を送っていました。周囲の友人からも何をやっているんだと、最悪な評価をされていました。まさに落ちこぼれの極みです。

落ちこぼれ生活も半年が経過。内心危機感を感じていましたが、抜け出せずにいました。
そんな時、学生時代に水泳部で苦楽を共にした友人と久しぶりに会うことになり、その友人の仕事観について触れる機会がありました。

彼は幼少時代に苦労したこともあり、昔から視座が高く、ずっと地元のため・自身の成長のため・家族のために、政治家を目指すという強い志を持っている人間でした。「今全力で頑張っていることが、絶対将来に生きてくる。今をサボっていたら、取り返しがつかない。」その言葉を聞き、働くとはなんなのか?自分は何のために働くべきなのか?そんなことを考え、奮起するキッカケになりました。

アパレル販売時代

そこからは、まったく業界の違う、アパレル大手の販売職という道に進みます。
実は就活の時に、2つの道で迷っていました。1つは実家を継ぐ前提で、建築という分野で専門職として生きる道。もう1つは、昔から夢だったアパレルという世界で生きる道です。高校時代に服に出会うことで、自分の知らなかった一面を発見・自信を持つことで、人生が変わるという体験をしました。
同じ価値をお客さんに届けたい、誰かの人生を変えたいという思いで、畑違いのアパレル業界に飛び込みます。実家を継ぐという将来的な話もありましたが、将来的にやらずに後悔したくないということ考え、両親とも話をし、きめました。

成果はすぐに現れます。
個人の販売成績は、ブランド内で常に上位となり、その成果が認められ、当時の最短1年半で店長へ抜擢されました。ただ、任された店舗は2期連続の赤字の課題店舗で、且つ、在籍スタッフは3年以上のキャリアのある先輩スタッフばかり。非常に難易度の高い状況でした。

着任してわかったのですが、業績悪化の原因の1つには、彼らの悪習慣(挨拶なし、笑顔なし、声掛けなし等)と、接客時にヒアリングができていないが故の販売力不足にあるとわかりました。
すぐに改善をうながしたいものの、当然、プライドがあるため、最初からいうことを聞いてくれるはずはありません。

まずは、私自身が結果を示し、やるべき当たり前のこと(幼少期から学んできた基礎基本)を体現することで、信頼構築をはかりにいきました。具体的には、お客様への声掛け・笑顔での挨拶・ヒアリング&提案・店舗内の整理整頓を徹底して実施。合わせて、誰よりも売上を上げるということも徹底しておこないます。初めは受け入れてくれるまで時間は掛かりましたが、スタッフがみんな素直であることが救いでした。1ヶ月ほどして成果が出始めてくると、周りのスタッフが少しずつ、私のマネをしてくれるようになります。それをキッカケに、本格的にマネジメント・マーケティングの仕組化を図っていきました。

マネジメントについては、やることの意味を伝えた上、面談での目標設定・個人売上目標の進捗管理のほか、良い習慣をつける仕組みとして、朝の笑顔練習・トークスクリプト共有・整理整頓タイムの設定などを実施。
マーケティングについては、客層やシーズンに合わせたレイアウトの変更・分析、傾向に合わせた商品在庫の確保、商業施設HPやチラシへの参画調整など、次々と店舗の仕組み・ルールとして取り入れていきます。

これらが定着していくと、業績はみるみる右肩あがりに伸び、前年比で127%を達成。全社2000店舗以上ある中で、優秀10店舗に選出され、1000人以上が集まる全社総会で表彰&事例共有のスピーチをさせて頂きました。常に自分だったらできると信じ続け、当たり前のことを当たり前にやり続ける、それがしっかり成果につながるのだと、自分の幼少期からの学びを再認識できました。

一定の成果をだせ、やっとここから人生登っていけるのかな。そんな淡い期待を持っていましたが、すぐに打ち消されます。

人生のどん底を経験

「会社もうダメかもしれない…」まさに人生のドン底の気分でした。

わすれもしない、2010年秋。当時はリーマンショック後で、その影響をもろに受け、会社の業績も低迷していました。昇給制度の大幅見直しが走り、どうなるかと思っていましたが、あれだけ目に見える成果を残したのであれば、さすがに待遇は大きく変わるだろうと、内心ワクワクでフィードバックを待っていました。

ところが会社から発表された結果は、昇給制度の1年間ストップ。唖然としました。確かに業績が伴わない中での経営判断としては賢明だったのかもしれません。ただ、個人としては全く納得いきません。上司にすぐに連絡をし、説明とある程度考慮してもらう余地はないのか?と詰め寄りました。ただ、何を言っても会社の判断。一介の上司と交渉したところで結論は変わりません。新卒1社目に続き、また裏切られたなという思いでした。

本当のどん底はこれからです。キッカケは母親からの電話でした。
その日は、遅番で売上の集計を終え、雨の中、駅までの暗い夜道あるいているところでした。
タイミングよく携帯がなり、でると消え入りそうな母親の声が聞こえました。
「お父さんの経営している住宅設備会社、もうダメかもしれない…家に戻ってくることは考えず、あなたはあなたの生活を守りなさい」

何を言っているのかわかりませんでした。心配かけまいと、今まで隠していたようなのですが、よく聞くと元受けがつぶれ、工事案件が滞り、支払いがおくれ、もってあと3ヶ月くらいだということ。

正直、心の中では実家にいつでも戻れるという甘えは心のどこかに常にありました。本当になめてましたね。電話が終わった後、理解が追い付いていくにつれ、涙と感情がこみあげてきました。

今まさに苦しんでいる両親を助けたいのですが、当然、自分には、その状況を打破できるような力や経済力も有りません。「今の自分には、経済力もなければ、状況を打破できるような力もない」「これまで積み上げてきた経験・成果に何の価値もない」まさに、自分の無力さ・こんなに危機的な状況でなんの解決方法も生み出せない弱い人間なのだと痛感しました。(後に、経営戦略に入社を決めたのも、岩渕に自分の理想の姿を重ねているのも理由の1つです。)

ですが、落込んでいる暇はありません。過去の自分は変えられないのです。
実家というバックボーンがなくなった自分にとって、これからどうやって生きていく力を身に着けていけばよいのか本気で悩みました。
当時の私は27歳。30歳を迎える3年後までにどういう姿になっていたいのか?自分の【Will】をイメージし、そこに対して現在とのギャップを書き出し、埋めるために何をするのか?を全力で考えました。

結論として出した答えは、劇的に自分の置く環境を変えることでした。
短期的にかつ、圧倒的に自身を成長させるためには、もちろん基盤となるビジネススキルを身に着けることも大事ですが、【ヒューマンスキル】【コンセプチュアルスキル】を磨くことが最も重要であると考えたのです。そんな環境を手に入れたいと、転職活動を開始します。

行き着いた先は、人材サービス最大大手のリクルートでした。人材を通じ、クライアントの経営に関わる・経営者と密接にかかわれるリクルートの環境は、まさに理想だと感じました。

まずは行動、次に行動!!それでも行動!

「まずは1日150件電話」からかなー。飛び込みの日は、1日30件は飛び込んでね。

入社してから、教育担当だったチーフからまず支持されたのは、そんな圧倒的な行動量でした。リクルートでは、入社してからの3ヶ月~半年間、既存のお客さんをもたず、ひたすら新規獲得のための行動目標が教育カリキュラムとして組まれています。恥ずかしながら、電話のかけ方・名刺の渡し方も知らなかった自分にとって、この目標数字は天文学的な数字です。早くも量をこなすことへの辛さ、営業電話への冷たい対応などで、「選ぶ道を間違えたのではないか?」「場違いだったのでは?」という弱い気持ちが噴出してきました。ただ、よく考えれば、これは自らが求めていた成長できる環境であり、自分が大事にしてきた基礎基本の部分です。ここを怠ったら、成果がでるわけはない、それであれば最大限やり切ってやろうじゃないか!と考え直しました。且つ、自分を追い込む為、生意気にも次の新人賞の表彰台には私がのります!と勢いで拠点内に宣言してしまいました。(正直、宣言した翌日は激しく後悔しましたが…)

宣言した以上、実現する以外の選択肢はありません。行動数は絶対に落とさないように、誰よりも早く出社し、準備を怠らないこと・人よりも行動数を担保することをおこないました。また、売れてる先輩の動きや実施していることを観察し、真似るということを徹底してやっていました。

また、リクルートのいいところとして、本気でやろうとしている人間には、協力しよう・助けてやろうという風土があります。私が新人賞を取りたいという明確な目標を宣言することで、それに沿った具体的なアドバイスやツールなど、惜しみなく頂くことができました。そんなありがたい支援を頂けたこと、基礎基本の徹底ができたこともあり、売上目標は1か月前にすでに達成。もちろん、新人賞も無事獲得でき、生意気な新人は、ちょっとできる新人に変わって行きました。

これまで大事にしてきた「基礎を怠らなかったこと」、「当たり前のことを当たり前にやる」を改めて体現できたことは、その後のマネジメントをしていく上でも、大いに役立っていきます

波乱万丈!代理店への出向

リクルートに入社して3年目。私はある程度の実績も残せ、メンバーをもち、育成する立場なっていました。そんな中、会社から大幅な戦略変更に伴う、人事異動の通達がおりてきます。それは販売代理店への出向命令でした。リクルートでは、広告売上の大半を代理店へ依存しており、契約代理店は星の数ほどあります。その中でパートナーシップの強い会社の売上UPを図ることがミッションでした。

出向メンバーは私を含め3名いましたが、正直、今回の出向を喜ぶ人間は誰もいません。なぜなら、ちょっと複雑なのですが、リクルート直営と代理店は、同じ商品を扱いながらも、お互いのお客さんを取り合う競合関係にあります。代理店側の心境としては、リクルートが一方的にバチバチ戦ってきた直販の営業を送り込んできたというマイナスな捉え方をされていました。

案の定、代理店の社長・幹部クラスとの初顔合せの場では、「君たち使えるの?」「とりあえず、問題は起こさないようにしてね」と1ミリも期待と歓迎ムードはありませんでした。名誉のためにつけくわえておきますが、おそらく私が逆の立場でも同じ態度をとったと思います。それぐらい、バチバチとした関係だったのです。※ちなみに、今ではお世話になった代理店の社長と幹部の皆さん、社内のみんなには、本当に感謝の気持ちしかありません※

そんな状態だったので、最初の1,2ヶ月はアウェー感しかなく、メンタル状態はボロボロ。私は1週間原因不明の微熱と咳が1ヶ月続き(今でも代理店のみんなに会うたびに語り継がれています…)、最悪のコンディションでの出向スタートでした。出向といっても、これまでとミッションは変わりません。むしろ、マネジメントなんてさせてもらえないので、新人時代とかわらずの下端営業に逆戻りです。

落込んでいてもしょうがないので、まずは、信頼を得るために、当たり前のことを当たり前にやろうと心に決め、取り組んでいくことにしました。営業としては力を示すため、単なる目標達成を目指すのではなく、圧倒的な成果を出すため、全社表彰をゴールに置き、突き進んでいきました。

社内の内勤さん、広告を制作する制作チームメンバー、営業部のメンバーへも積極的にコミュニケ―ションをとり、質問を受けた時やメールなどをもらった時は、誰よりも早く返信する・何かをしてもらったら、感謝の気持ちを真っ先に伝える・お客さんから頂いた感謝の気持ちや成果は関連ある人には必ずシェアするなど、プラスの発信を意識して行っていきました

そんな活動を1ヶ月も続けていると、自然と信頼関係を築くことができ、敵対していた人⇒なんか信用できる人かも⇒頼っても大丈夫な人だ!と思ってもらえるまでになっていました。退職相談のようなパーソナルなものも、真っ先に話してくれるようになり、しっかり向きあった結果を体感していました。

営業成績としても、有言実行の全社表彰を実現。Sクラス最優秀営業賞(代理店の営業600人の内の1位)と合わせて、2年連続グランドスラム(通期達成)を獲得し、あれだけ期待も歓迎もされなかった社長・幹部からもお褒めの言葉を頂け、信頼度はMAXに

そこからは、組織課題への取り組みにも参加させていただくことができ、内勤さんの育成カリキュラムの作成や採用面接、チーフとして、営業メンバーのマネジメントや面談の仕組化など、色々なプロジェクトに取り組ませていただき、代理店の法人MVPにも貢献。MVP達成旅行の香港にも呼んでもらい、とても良い関係性を築くことができました。

ここでも「基礎基本の徹底」、「当たり前のことを当たり前にやる」を大事に、やり切ることで成果を残してきました。

気付けば、リクルートに入社し、8年目になっていました。。
34歳になり、入社前に描いた30歳の自分を思い出し、改めて思い返すといくつか到達できてないことに気づきます。ヒューマンスキル、テクニカルスキル、コンセプチュアルスキルはある程度学べたと思いますが、それは、あくまでリクルートの看板・仕組があってこそということに気づきます。
一個人として、社会で戦えるようになりたい。そんな思いから転職を決意。
満を持し、リクルート卒業を迎えます。

転職活動では、ITベンチャー、人材紹介、広告業、コンサル業など、あえて色々な会社にお話しを聞く機会を頂きました。その中でもこれから伸びるといわれているVR業界で、当時最も伸びていた会社に目をつけ、入社を決めます。しかし、この判断が大きく回り道をする選択となるのを、この時は知る由もありませんでした。

転職失敗、大失敗

VRと聞けば、皆さんは何を思い浮かべますか?おそらくゲームという回答が大半だと思います。当時私が担っていたのは、不動産や旅行など、一般消費者が購入検討する際に、まずはVRで仮想体験をしてもらうことで、その場に行かなくても判断ができたり、イメージと違ったなんていうミスマッチを防げるような活気的なものでした。例えば、部屋を借りる際にVRで内見してしまう、旅行先のホテルの部屋をVRで見てきめちゃう、車を購入する際、仕様・色の違いをVRで見るみたいな、そんなイメージです。まだまだ答えのない確立前のサービスでしたが、企画職として、人の暮らしをもっとより良いものにできると信じ、使命感に燃えていました。

しかし、理想論だけでは、そう上手くは進みません。サービスやアイディアとしては確かに画期的なものでしたが、まだまだ需要は少ない上、データ通信などインフラが整っていないこともあり、トラブルも多く発生していました。導入するだけクレーム対応におわれる毎日。「新しいことをやるって、こういうもんだろう」「ここから磨き込めばきっといいものになる」と信じ、なんとかモチベーションを保っていました。けれど、業績がなかなかついていかず、会社のスタンスが徐々に売上第一主義へ変わっていきます。私は、ビジネスをする上では「顧客の為に最大限価値を提供する」が基礎基本だと考えています。それを軽視してしまう会社の方向性に、徐々にズレを感じはじめていました。

経営戦略研究所との出会い

感じたズレは大きくなり、転職活動を初めます。そんな時、リクルート時代の先輩から、「いがちゃんの理想に近い会社があるんだけど、話聞いてみない?」と連絡をもらいました。そこで紹介されたのが、経営戦略研究所です。正直、はじめにHPを見た時には、歯科業界の知識もなく、すでに他の会社で最終選考に進んでいたこともあり、そこまで興味は持てませんでした。

ただ、よく話を聞くと、元リクルート出身者が多く、人を大事にする風土があること・会社の売上でなく、顧客に対しての成果にコミットできるということを聞き、まずは話だけでも聞いてみようと、弊社の岡本と会うことになりました。そこで聞いた会社の考え方、スタンス、コンサルスタイルは衝撃的だったことは、強く印象に残っています。 それは、「売上目標なし」「業績に向き合うのではなく、クライアントにとことん向き合う」「社内で売上の話をするのではなく、クライアントがどうすれば成長するのかを徹底的に話合う」
そんな会社は聞いたことがありませんでした。
岩渕、渡邊とも、しっかり話を聞く時間をとってもらうことができ、自分の本当にやりたかった仕事、本当になりたかった姿を、この会社だったら実現できる!そんな確信を得ることができました。

27歳当時に「実家の経営がもうダメだと」母に電話をもらい、何もできなかった自分に感じた無力感。それの悔しさを糧に、自分を変えたいと、ここまで突き進んできました。 「経営者と一緒に経営に苦しみ、全力でサポートをする・道標になる」そんな人間に成りたいとずっと思っていました。まさにこの会社だったら、それを実現できると確信し、入社をきめました。

これまで多くの地域一番を実現してきた岩渕メゾットと、自身の積み上げてきた基礎基本(成功体験・ノウハウ・知識やコミット力)で、「関わる人すべてを幸せにしていく」を実現すべく、日々励んでおります。経営者が迷わなくて済むよう、経営にコミットできるように、しっかりと道を示していく。
そんな支援を心がけ、一緒に成長して行けるよう、まずは小さいことでも一緒に実践していきましょう!