地域一番WEBコンサルタント茶川 智仁

略歴

広島県福山市出身。岡山大学を卒業後、大阪大学大学院へ進学し、統計学やデータマイニングに関わる研究に従事。修了後、新卒で(株)ワークスアプリケーションズに入社。

入社後、会計管理システムの導入コンサルティング部門に配属され、金融資産管理・資金管理システム専門の導入コンサルタントとなる。入社後5年間で、20社以上の大手企業のシステム導入プロジェクトに参加し、成功に導く。

入社6年目に、社内で実験的に行われていたジョブローテーション制度を活用し、開発部門へと異動。コンサルタント時代に培った業務知識と現場感覚を基にした、ユーザービリティを意識した機能開発が評価され、数億円の受注に繋がる機能案件の開発などに携わる。

ワークスアプリケーションズの先輩であった岡本雅史を通じ、経営戦略研究所の存在を知る。岩渕龍正の考えに共鳴し、より身近なお客様に対して問題解決する場を求め、転職を決意。前職の開発者時代に培ったシステム知識やプログラミング能力を活かし、WEBマーケティング全般の仕事に携わる。

茶川 智仁をより知って頂くために

幼少期

広島県福山市で生まれた後、転勤族であった親に従って、京都府⇒石川県⇒広島県広島市⇒広島県福山市と引っ越しを繰り返す、慌ただしい幼少期時代を過ごしました。物心がついたのは広島市に来てからで、今では余り想像がつきませんが、近所の同級生達と遊び回るのが日課の、わんぱくな少年時代を過ごしました。

小さい頃の私を一言で言い表すと、要領が良い子どもだったように思います。遊んだり、テレビゲームをするのが大好きだったので、どうすればもっと遊べる時間を確保できるか、何より、どうすれば親がそれを許して貰えるかを、真剣に考えるような子どもでした。その結果、親の手伝いを積極的に行ったり、学校の宿題・テストにも全力で打ち込むようになりました。その代りに、遊びに行ったりテレビゲームをしたりしても良いという、ギブ・アンド・テイクの関係を構築していました。

時には、どうしても欲しいテレビゲームをあった時に、「テストで10回連続で100点を取ったら買ってもらう」と親と約束をしたりもしました。小学校時代のテストは簡単とは言え、ケアレスミスも多かった私は、この目標には今まで1回も到達したことがありませんでした。しかし、約束を取り付けて以後は、学校での勉強や宿題にも真剣に取組み、見事最初のチャレンジで達成する事ができました。思えば、この幼少期の経験から、目標を設定してそこに向かって邁進をする、今の自分が形成されたのかもしれません。

初めての挫折と父の死

高校時代まで、当然の事ですが、失敗は大きなものから小さなものまで、数えきれないほどしてきました。しかし、挫折と言えるほど大きな壁にぶつかった経験は、正直言って高校時代までありませんでした。ですが、私にもそんな時が訪れます。高校2年の、これから受験シーズンが始まるという時期、父に癌が見つかり、闘病生活に入ったのです。

父の看病はその殆どを母が行ってくれました。そして、私が受験に集中できるよう、なるべく父と私を遠ざけるように取り計らってもくれました。しかし、どれだけ母が努力をしても、どこかに綻びは生まれてしまいます。家の空気の重苦しさや、家に帰っても食事が無いという寂しさ、自分もできるだけ家事を手伝いつつ、夜遅くになってから勉強を開始するといった生活。そして何より、日に日に衰弱していく父の姿。周囲に比べてハンデを抱えている自覚はありましたが、母の頑張りを痛いほど理解していた私は、何も言う事ができませんでした。
「誰のせいでもない」
「全ては自分の努力次第」
そう思い、受験に集中する事にしました。

しかし、やはり限界があったのでしょう。高校3年の夏ごろから、私の成績は下降を始めます。学年トップだった成績は2桁順位にまで下がり、第一志望校の判定もB判定からE判定になりました。父は病院から出られなくなり、母はそれに付きっきりに。兄も週末には大学先から帰ってきて、母の手伝いをしていました。担任の先生は私の事情をよく理解してくれて、相談にもよく乗って頂きました。しかし、当然の事ではありますが、どうすることもできない状況でした。焦燥感だけが募った3年の秋から冬にかけてが、精神的に一番きつかった時期だったように思います。人生で初めて円形脱毛症になったのもこの頃です。ストレスのせいなのでしょうか、今でもこの時期の記憶を鮮明に思い出すことができません。

こんな状況の中で迎えたセンター試験ですが、当然のごとく大コケをしてしまいます。驚くことに、1年前の同じ日の高校2年の時、お遊びでその年のセンター試験に解答した時の方が、合計点で2点上回るという有り様でした。その後は周囲とも相談をし、前期試験は元々の第二志望の国立大学を、後期試験は岡山大学を受験する事になりました。この頃の私ですが、現実逃避なのか、あらゆる出来事が他人事に思える感覚に陥っていました。ただ淡々と毎日を過ごすだけの日々。父とは年明け以降、一度も会っていませんでした。このような状況の中、前期試験も淡々と消化しました。結果は見るまでもありません。
しかし、帰りの新幹線で、当時普及し始めていた携帯電話に着信が入ります。父が危篤に陥ったという、母からの連絡でした。この時、久しぶりに自分に感情が舞い戻ったような感覚に陥りました。

大急ぎで病室に向かうと、私以外の親族が勢揃いし、私の到着は最後でした。父は何とか持ちこたえてはいましたが、医師からはもはや時間の問題だと言われました。その時、父が一度だけ目を開き、私と目が合いました。その表情は、私に何かを語りたそうにも見えました。そして暫くした後、再び目を閉じ、そのまま目を開く事はありませんでした。同日の日付が変わる頃、私の到着から6時間後、父は眠るように息を引き取りました。最後に言葉を交わす事は、残念ながら叶いませんでしたが、死に目を看取ることができたのは本当に幸運だったように思います。

全ての出来事が他人事に思えていた当時の私も、この時は久しぶりに涙を流しました。そして、自分だけが状況を知らなかったもどかしさや、両親への申し訳なさ、自分への不甲斐なさなど、様々な感情が押し寄せてきました。

通夜と葬式の時間は慌ただしかったものの、久しぶりに勉強から離れる時間になりました。同時に、自分自身と自分のこれからを見つめ直すための、良い機会にもなりました。そして出した結論は、「悔いの残らないようにしよう」という、非常にシンプルなものでした。

それ以降の勉強は、自分自身も驚くほど身に入り、久しぶりに勉強が楽しいという感覚がありました。後期試験の科目は小論文です。自分の考えをロジカルにまとめる事は割と得意としており、日本史と政治経済も得意だったので、背景となる知識面にも不安はありませんでした。実は、センター試験の結果から判定はあまり良くなかったのですが、実習を重ねて行くに連れ、先生からは太鼓判を頂くこともできました。

そして迎えた後期試験の当日。小論文のテーマは介護政策に関する事だったと記憶しています。時間内に、あらゆる知識を総動員し、自分の考えをまとめる事に集中しました。全て書き終えた時、前期試験には全く無かった手応えを感じた事を、今でも鮮明に覚えています。そして、今回は良い意味で結果を見るまでも無く、無事合格を果たす事ができました。

この高校時代の経験は、今思い返してみても非常に辛い物です。ですが一方で、「どんな困難な状況下においても、全力を出し切ることの大切さ」を学びました。同時に、これ以降は、「仮に失敗する場合でも、全力で失敗する」事を強く意識するようになりました。

進学と塾講師のアルバイト

岡山大学への合格を果たした後は、別に志望校があったことから、浪人するかどうか悩んだりもしましたが、進学する道を選びました。進学後は、幸いな事に、父の務めていた会社から、遺族年金という形で奨学金を受け取る事ができ、一人暮らしを始める事ができました。当初、実家から通う想定をしていたのですが、これにより通学時間が大幅に短縮される事となります。最初の頃は、一人の時間を満喫していたりもしましたが、それにも飽きてきた頃、その空いた時間にアルバイトを始める事を決意し、塾講師のアルバイトを始める事にしました。

採用試験をパスすると、私は高校受験と大学受験を控えた受験生を中心に受け持つことになりました。特に、社会科系の科目を得意としていた先生が不足しており、そこを得意としていた私は重宝がられました。余りコミュニケーション能力には長けていない私ですが、豊富な知識量が私の最大の武器でした。特に日本史は、記憶する事ではなく、歴史の流れや因果関係を理解させる事に重点を置き、暗記が苦手な生徒にも大変好評を頂く事ができました。生徒の中には、「法律には、それが制定された歴史的背景やストーリーがある」という私の授業に感銘を受け、教育学部から法学部志望へ変更すると宣言し、見事合格をした子もいました。

塾講師の仕事で学んだ事は、準備の大切さです。「教える側は教わる側の3倍の労力が必要」とよく言われますが、これは正にその通りだと思います。カウンセリングをされている方はおわかり頂けると思いますが、相手に何かを伝える際は、頭の中にある知識をただ相手に渡すだけでは意味がありません。流れや順番を意識し、そして相手の反応を見ながら適切に投げかける事が大切です。相手の興味・関心を引く事や、時には例示や脱線なども心がける必要があります。これらを上手く実践するには、事前の準備とシミュレーションが不可欠です。私も駆け出しの頃は、実際に授業時間の何倍もの時間をかけて準備を行う事を心がけていました。後に、システム系の仕事に従事することになりますが、この準備を徹底する意識は非常に役に立ちました。

ワークスアプリケーションズへの入社

就職活動をする頃には、上記の塾講師の体験から、人を教え導く事ができる職業を希望するようになりました。そしてその内、「コンサルタント」という道に漠然とした憧れを抱くようになりました。コンサルティングファームも検討はしましたが、研究費が必要であった事から、東京へ頻繁に面接に行くためのお金を工面できませんでした。そこで、大学院1年の時にたまたまインターンシップに参加し、入社パスを貰っていたワークスアプリケーションズへの入社を決意する事になります。

入社後は研修も無事突破し、希望していたコンサルティング部門の会計部署に配属される事となりました(余談ですが、この部署に今も同僚となる岡本も所属をしていました)。会計は主に、一般会計管理、債権・債務管理、固定資産管理、金融資産管理の4つのパートに分かれます。私はこの中で、最もマイナーと言われていた金融資産管理を専門に扱うチームに配属される事となりました。

さて、実際にコンサルタントとして世に出てみた事で、私が漠然と抱いていたコンサルタント像と、実際に求められている姿は全く異なることに気づきます。私は「教え導く」姿が理想である、と勝手に思っていたのですが、実際には「クライアントの話に耳を傾ける」事こそ、あるべき姿なのだと気づいたのです。

理想が打ち破られた事については、余りショックを受けませんでした。なぜならそれ以上に、私自身に必要とされる能力、いわゆるコミュニケーション能力が足りていないという事実に、強い焦りを感じていたからです。先輩からは、人当たりは良いと評価はされていました。しかし、焦った時に相手にそれが伝わりやすいという悪癖があり、これが課題であるとの指摘を頂きました。そして、これではクライアントから信頼を得ることは難しいとも。現場では、予期せぬ質問をされたり、思わぬ課題が降って湧いたりという事は日常茶飯事だからです。これは私も自覚していた事でした。

悩んでいた私は、周囲の先輩に声をかけ、悩みを相談する事にしました。皆さんお忙しい状況ではあったのですが、真摯に答えてくださり、以下のようなアドバイスを頂く事ができました。

「場数が大事だからもっと社内で練習しよう。俺も時間が空いてれば付き合うから、予定に入れておいて。」
「電話を積極的に取ってみよう。顔が見えない、知らない相手とも話せるようになると、現場でもきっと堂々と話せるようになるから。」
「自分の中で武器を作ろう。そうすれば自信に繋がって、浮き足立つことも無くなると思うよ。」

これらのアドバイスは、頂いたらすぐに実践するようにしました。コンサルタントの研修には、お客様先で機能説明をする場面を想定し、機能デモを行う事がよくあるのですが、これを先輩の前で何度も繰り返したり、社外からの電話当番を積極的に交代するなどしました。そして、最も力を入れたのは武器を作ることです。私の強みは何かを考えた時、まず思い当たったのは記憶力でした。高校時代から日本史に関しては絶対の自信を持っており、物事を記憶し、整理する事に関しては人より秀でていると信じていたからです。システムコンサルタントに求められる知識は、大別して「機能知識」「システム知識」「業務知識」の3つに分類されます。その日から私は、計700ページほどあるマニュアルを読み込んだり、金融に関する書籍を読み漁ったり、同期の開発者の飲みに誘い、機能が動く仕組みを聞き出すなど、様々な取組を半年ほどかけて行いました。その結果、先輩が別の大プロジェクトにアサインされたという理由もあるのですが、金融資産管理の部門においては、No.1のコンサルタントに上り詰める事ができました。

正直な話をすると、コミュニケーション能力は、努力したものの、多少改善された程度で、今でも余り得意な領域ではありません。私がNo.1になれた理由は、機能、業務、システムのあらゆる面における知識量にあったと言えます。

システムコンサルタントは、絶対の自信がある時以外は、機能対応の可否の回答してはいけないと指導をされます。なぜなら、できると思っていた事が、細かく詰めていくと、「実はできませんでした」という事が起こりうるからです。そうすると、「あの時できると言ったじゃないか!」と問題になり、最悪の場合、「できると言ったのだから今からでもやれよ!」という話にもなりかねません。なので、複雑な質問が出た時は、基本的には社内に持ち帰る事が定石です。

しかし、私の場合は対応可否の回答や他社事例の説明だけでなく、業務における具体的な流れや考えられるリスク、必要となる設定などを詳細に回答する事ができました。この対応による最大のメリットは、伝言ゲームのやり取りが少なくなる事です。社内外での伝達が多くなるにつれて、情報の正確性は下がり、何より時間がかかってしまいます。その点、私のプロジェクトでは、情報の伝達が早く、抜け漏れの少ない確実な運用が可能となりました。特に、登場人物の多い大型のプロジェクトでは、先述したようなリスクが発生しやすく、往々にしてプロジェクトの遅延が発生するのですが、私が担当する金融資産管理の領域については、殆ど遅延なくプロジェクトを遂行する事ができました。

開発部門への転身

コンサルタントの仕事にはやりがいを感じていましたが、システム会社の問題解決の手段は、やはりシステムの良し悪しに大きく左右されます。ほんの少し機能が足りないばかりに、「じゃあ使えないですね」と、お客様にがっかりされる経験を何度もしてきました。お客様の問題をもっと自力で解決ができないかと、忸怩たる思いを抱く日々が続きました。

そんな時、ジョブローテーションという制度が発表されます。機能知識の豊富な開発部門がコンサルへ行き、業務知識の豊富なコンサルが開発へ行くという制度です。私はこれに飛びつき、会計部門におけるジョブローテーション制度利用の第一号になりました。プログラミングは新人の時の研修以来で、その時は余り得意でありませんでしたが、この時は経験を積んだからか、「絶対にできる」という自信がありました。

ありがたい事に、私の仲の良い同期がプログラミングの指導をしてくれる事になりました。当時はプログラミングの社内教材なども無く、正に「習うより慣れろ」の体制だったのですが、同期が与えてくれる課題のレベルが適切であった事もあり、順調にステップアップをする事ができました。

そうして半年ほど過ぎ、プログラミングに自信が持てるようになった頃、数億の追加受注に繋がる可能性のある案件が回されてきます。それは、リリース済であるものの、不具合だらけで一部のユーザーしか使っていないという機能を、不具合を潰しつつさらに使い勝手を良くする、といったかなり難易度の高い物でした。さらに、ソースコードは、その機能だけで合計して3万行ほどもあり、一人で対応をするにはかなり大規模な機能です。しかも、改修期間はたったの2ヶ月。不具合を潰すだけなら、他の開発者でも何とかなりそうでしたが、使い勝手の部分がネックとなり、現場に明るい私にお鉢が回って来たのです。

この対応のため、私はコンサルタントを通じて要望のヒアリングから開始をしました。そして、貰った回答を元に詳細な業務フロー資料を作成。これを再びコンサルタントを通じてお客様に確認をして貰います。ここでOKが出たら、今度はそれを詳細なシステムフローに落とし込むという作業を行いました。結果、今ある機能は見た目だけを残し、中身はほぼ洗い変える必要があるという結論に至ります。一人ではとても期限までには間に合わない、膨大な作業量です。しかし、前工程で詳細なシステムフローを作成していた事から、何をどう作れば良いかは明確な状態となっています。そこからは協力会社の力も借り、手分けをして開発を進めていく事になりました。

実は、一つの機能を複数人で修正する作業は、システム開発の現場ではかなり困難です。なぜなら、開発者は大抵の場合、コミュニケーション能力に難があり、協力して何かを達成する経験に乏しいからです。また、当初の案件の方針から軌道修正が入ったり、ちゃぶ台をひっくり返されたりする事も珍しくありません。こうした決定事項を随時共有し、浸透させる事も、決して簡単な事ではないのです。

しかし今回の場合、今まで培った業務知識を元に、ほぼ修正の必要のないシステムフロー図が完成されていました。理想である「設計書通りに作ればいい」という状態が実現できていたのです。その結果、この機能は期限までにリリースができ、受注につなげる事ができました。先方の担当者からは、
「非常に速く、使いやすいシステムです。ありがとうございます。」
というお言葉を頂くことができました。このお客様の言葉こそ、私が求めていた問題解決の瞬間でした。

経営戦略研究所との出会い

その後は、社内の体制変更に伴って再びコンサルタントの道へ。開発に残ることを強く希望しましたが、有無を言わさない状況でした。コンサルタントの仕事は変わらずやりがいはありました。しかし、「お客様の問題を自分の力で解決したい」という、ジョブローテーションをした当時の思いが消える事はありませんでした。

そんな時、かつての先輩であった岡本から、経営戦略研究所の存在を教えてもらいます。歯科業界の現状や、そこをターゲットにするコンサティング会社があるという事を、初めて知りました。強く興味を惹かれた私は、その後、岩渕とも話をする機会を設けて頂きました。その時の話で心に残ったのが、岩渕が歯科経営コンサルタントを始めるきっかけとなった、「与えられた領域で全力を尽くす事の大切さ」の話でした。これは、私が高校時代に抱いた「どんな困難な状況下においても、全力を出し切ることの大切さ」に似ていると思いました。この時、現状に満足感と不満足感の両方を抱いていましたが、今一度、現在の領域で力を尽くす事を心に誓いました。

そして1年後、自分の中で十分やりきったと思った後、経営戦略研究所の門を叩く事にしました。与えられた領域は、コンサルタントではなく、WEBマーケティング全般に関わる内容です。入社後、岩渕からは「これからの時代に必要になるから」と聞かされました。この言葉は、医療広告ガイドラインの改正や、高度なシステム知識が要求されるようになったSEOなどの領域で、正に現実の物となりつつあります。そしてそれは、これからも続いていく事でしょう。

私は、お客様の前に立つことはありません。持てる知識や技術を駆使してコンサルを後方から援護し、間接的にお客様へ貢献をする立場です。お客様と直接接する機会は無くなりましたが、求められる役割や領域が広くなった事で、前職よりもはるかにお客様の問題が解決できるようになりました。これからの時代も、WEBや情報技術の発展はますます加速度的に進んでいきます。そんな時、お客様やコンサルタントがきちんと時流の波に乗れるよう、サポートをして参りたいと思います。