地域一番プロデューサー吉村 拓也

略歴

和歌山県出身。
大学を卒業後、超ブラック企業を経験し、歯科医院の内覧会業者に辿り着く。
5年間で延べ200軒以上の歯科医院の新規開業に携わり、6万人以上の集客を実現。
内覧会での診療予約率を当初の会社平均の3倍以上にすることで、数々の歯科医院のスタートダッシュを成功させる。
そんな中、一冊の本から7ポケットという考え方を知る。7つの収入を作るため、内覧会事業をこなす傍ら個人事業主として輸出業を展開し、初月から5ヵ月連続売上100万円越えを達成。しかし、新型コロナウイルスによる輸出業界への影響で売上が半減、雇っていたスタッフも11人中9人を解雇する運びとなる。3つ目の収入を作るためYouTube界へ参入し、本の要約チャンネルを開設。わずか2ヵ月で収益化条件である登録者数1,000人/総再生時間4,000時間を達成。本業をこなしながら事業主としての考えを身に着けていくうちに、もっと歯科医院の経営に踏み込んだことをしたいと考え、経営戦略研究所に辿り着く。
内覧会で培った立地を問わない集患ノウハウと患者心理の理解を活かし、地域一番医院へと導いていく。

吉村 拓也をより知って頂くために

幼少期

和歌山県有田市という有田みかんの広がる田舎町で育ちます。
父・母・兄のいる4人家族の次男であり、家に帰るとすぐに遊びに行く活発な子供だったのですが、小学校高学年になると転機が訪れます。母親が病気を患い、入院してしまいました。父は東北地方へ単身赴任をしていたので、母親が入院すれば一軒家に私と兄だけになってしまいます。しかし、代わりに祖母が自宅にやってきてくれ、美味しい料理もふるまってくれたので不自由はありませんでした。ただ、私が外出して17時を過ぎても帰ってこなければ、祖母が自宅の前の交差点に立って私の帰りを待つものですから、随分帰宅が早くなったのを覚えています。その後は母も無事に退院して戻ってきてくれましたが、家族のありがたみや大切さを感じました。

高校時代

地元ではそこそこ有名な進学校に進み、クラスの数も一気に増えたことで多くの友達ができました。部活に2つ所属したり、文化祭の劇で白雪姫役をしたり、アルバイトをしたりと楽しみましたが、3年生になるとそうもいきません。私は特進クラスという国立大学を目指すクラスに入ったので、そこからは毎日10時間以上の勉強の日々が始まりました。1日の時間のほとんどを学校と塾で過ごし、通学の電車や自宅でのわずかな自由時間も勉強に費やしました。当時のテレビで、肉を食べると頭の回転が下がるという話が放送され、肉を食べないという無茶苦茶な生活に突入していました。そういう頑張りもあってか、模試で地方の国立大学ならほとんどA判定という結果までいきました。天体物理学が好きだったので、その分野で有名な寺島教授のいる愛媛大学に進学しようと決め、無事にセンター試験でもA評価を受けます。さらに、愛媛大学の入試科目は物理学だけなので、それまでしていた数ⅢCや英語の勉強が一気に不要になったのです。教師からも親からももう安心だと言われ、入試までの1ヶ月の残り期間は友達とご飯を食べに行く余裕もできました。問題集の繰り返しもそこそこに、ついに入試の日を迎えます。前日から一緒に愛媛に泊まっていた両親が大学まで見送ってくれ、余裕の面持ちで門をくぐりました。「春からはここの学生か」と胸を踊らせながら試験会場に向かったのを覚えていきます。入試が終わり次第、その足で一人暮らし用の部屋を契約しに行きました。あとは適当に私立大学を受けながら、いよいよ結果発表の日を迎えます。ネットで受験番号を順番に見ていくと、あるはずの私の受験番号がそこにはありませんでした。心臓がドクンッと脈打ち、何度も何度も確認しますが当然表れることはありません。私は肩から崩れ落ち、今まで必死にしてきた勉強はなんだったんだろうと絶望しました。A判定を受け、どこかで気を抜いてしまっていた自分に気づき、人生で一番の悔し涙を流します。最後までやり切ることの大切さを知り、努力には意味があるが結果に繋がってこそより意味があると考えるようになった日でもあります。

経営者になれば自由な生活だよ

大学時代のアルバイトとして、先輩が立ち上げた化粧品の販売会社の事務として働いていました。仕入れで海外を飛び回りながらも自由に生活する先輩の悠々自適な生活に憧れることになります。
ちょうど就活の時期が差し迫っており、経営者になるためにはどうすればいいのかというのを考えました。そこで思いついたのが、「そうだ、ベンチャー企業で社長から直接学ぼう」という発想でした。そうと決まれば行動は単純です。周りの友達が一流企業を応募する中、私だけベンチャー企業周りをして社長から直接話を聴かせてもらう日々が続きました。
何十人とお会いしていく中、この人だ!という考えの社長に出会い、そこに就職することになります。
今では家庭で当たり前となったウォーターサーバーのパイオニアの会社です。
この会社でありがたいのは、社長のスピーチが毎朝1時間あったことです。普通の会社であれば嫌がる社員が多数だと思いますが、経営者としての考え方を毎朝教えてもらうことは、私にとっては天国といえる環境でした。 事業の立ち上げ方、売上と経費の考え方、銀行との融資のやり取り、何のために仕事をするのかといった仕事観まで教えていただきました。
仕事内容としては新規営業で、毎日車にウォーターサーバーを乗せて一般家庭に売り歩くというものです。結果至上主義の社長だったので、売れるまで会社に帰れません。
始めの頃は思うように売れず、社長が会社を出てから私も会社に帰るという日々を過ごしました。
社宅でしたので住居の心配はいりませんが、ほぼ歩合制なので売れなければ給料は雀の涙です。「このままではいけない・・」ということで、阪大卒の同期の子がいたので一緒にどうすれば売れるかというのを考えることにしました。 まずは飲んでもらわないことには話にならないということで、ファミリーをターゲットに大型公園やスーパーの前で試飲会を開こうとなりました。二人でテントとテーブルを買い、風船を用意していざ開始です。するとこれが主婦層に大ハマリし、二人では説明の人手が足らないので社長まで駆り出されるほどお客様が集まりました。今では当たり前となりましたが、イオンや電気屋での販売も行い、効果は十二分でした。
商品が売れないからといって商品のせいにするのではなく、ターゲットと販売方法を見直すというビジネスモデルを考える力が付きました。

辞めます

入社して4ヶ月も経つと、私が担当する顧客だけでも200人以上のお客様ができました。新規営業に回る余裕もなくなり、既存顧客のフォローがメインになってきた頃に問題が発生しました。社会保険が天引きされているのに保険証が届かないのです。風邪など引かないものですから保険証が手元にないのをすっかり忘れていたんですね。そのことを伝えるとバツの悪そうな顔をされ、あんなに言葉では良いことを並べていたのに、経営者が目先の利益だけを追求しているこんな会社では自分の未来はないと考え、辞める決断をしました

歯科業界に進出

安く使える人材を労働力として搾取するブラック企業ではなくホワイト企業にしようという考えになった私は、残業なしで休日をしっかりとれるという会社を探し、行き着いたのが歯科の内覧会企業です。
「新しくできる歯医者さんです」。このセリフは私が5年の在職期間で10万回近く発したであろう台詞です。ここで最も重要視していたことが集客です。とにかく内覧に来てもらわないと、診療予約に繋がらないからです。なので、通行人に声をかけ、なんとか歯医者さんの内覧に来てもらうのです。
ここでも前職の経験が生き、どうしたらもっとたくさんの人が来てくれるだろうと常に考えることができました。言い回し、話しかける角度、物の配置、視線誘導などと試行錯誤の連続です。こう言われたらこう返すのがいいな、あの人の場合はこの距離で声をかけたほうがいいなと、通行人の歩く速さや通る場所によって、立ち位置や言い回しを変えられるようになりました。
人がどんどん来場するようになり、先輩達からも「社内で一番上手」と言われるほど集客面は上達しました。

集客はいいけど診療予約が入らないよね

色んな先生から時折放たれるきつい一言でした。当初は来場人数に対して予約率10%が平均だったので、会社全体としての問題でもありました。先生だけではなく、懇意にしているディーラーにも言われていたことだったので、次はアポイント率の改善に取り掛かることにしました。そのためには、来場者の気持ちを知る必要があります。どういう気持で歯科医院の内覧会に来てくれたのか、何に悩んでいて何を知りたくて何を求めているのか。それを知るためにアンケート制度を導入しました。効果は期待以上で、患者の気持ちに合わせた説明をすることができるようになり、予約率は15%まで伸びました。もっといけるんじゃないかということで、次に行ったのが予約特典の強化です。予約特典自体は以前からあったのですが、強化するためにツールを作成し、どの値段なら患者からの反応があるのかとどんどん試していきました。自分が良いと思うものを提供するのではなく、患者が喜ぶことを提供することにしたのです。これだという最終形に辿り着くことで、私のクライアントは、一気に予約率15%から33%まで上昇しました。内覧会をするだけで、毎回100件以上の診療予約が入るようになったのです。ここまで来ると、先生にはただただ感謝していただけるようになりました。

貿易業の始まり

仕事は順調だったものの、内覧会事業は右肩下がりとなっていくと予想できました。主な理由は2つあります。1つは、医院継承が増えたことで、メインターゲットの新規開業案件が減っていたこと。もう1つは、女性ドクターの増加傾向に伴い開業件数が減っていくと考えられるからです。そういう事情があり転職も視野に入れていたときに、山崎拓己さんの本から7ポケットという考え方を知ります。最近ではメジャーな資産形成の考え方なのですが、7つの収入源があれば将来安泰に暮らしていけるというものです。
今の時代に適した副業を調べていると物販にいきつきました。それからというもの、通勤や仕事終わりの時間を輸出業の勉強に費やします。各国の関税、航空便と船便の違い、商品のリサーチ、梱包方法や資材品定などです。その甲斐あって、初月から5ヶ月連続で売上100万円越えを達成することができました。個人事業主として、さらに売上を伸ばすため11人のアルバイトも雇っていたのですが、新型コロナウイルス流行により輸出業界全体が大ダメージを受けます。その煽りから私も逃れられず、アルバイト9人を解雇、売上もガクンと下がりました。

Youtube界へ参入

貿易業の売上は落ち着いたものの、ほぼ不労所得となっていたので、次はYoutubeで広告収入を得ることを狙いました。もともと読書が好きであることと、本ならネタが尽きることもないので、本の要約チャンネルを作ることにしました。ここでもまずは勉強からです。有名な要約チャンネルを見て、どういう話の構想が視聴者にウケるのか、どのくらいの時間でどういうアニメーション映像を作ったら見やすいのかを分析しました。映像作成と編集は実際に作りながら学んだので、最初の頃は1本出来上がるのに30時間以上かかっていました。本当に地道な作業です。しかし、本を読んだ内容がすごく頭に入るのと、自分が好きな本を周りに知ってもらえるということで作っていて楽しかったです。
メンタリストDaiGoが好きだったので、彼の本を中心にアップしていました。2ヶ月経つ頃には、チャンネル登録者1,000人/総再生時間4,000時間を越えて収益化が可能になりました。努力が実ったことに歓喜し収益化の申請をしたところ、Youtubeからの返信は「著作権の違法でチャンネルを削除しました」という文言でした。どうやらBGMに使用していた音楽が著作権に引っかかってしまったようです。
途方にくれた私に、人生の転機が訪れます。

経営戦略研究所との出会い

いつものようにある歯科医院で内覧会を行っていたとき、弊社のコンサルタントである乙川に出会います。当時から地域一番実践会という名前だけは知っておりましたが、先生からの絶大な信頼を得ている様子に、どういう立ち位置の会社なんだろうと思ったものです。
そんな乙川から仕事の内容を聴いてみると、そこまで歯科医院の経営に入り込んだ仕事が歯科業界にあるのかと驚きました。
内覧会業者として、内覧会が終わった後は医院のために何もできることがないというのにずっともどかしさを感じていたので、乙川から聴いた仕事内容は非常に衝撃で、且つ魅力的に感じました。その後、弊社のマネージャーである萩原からも詳しい話を聴き、こういう人になりたい、この仕事で歯科医院にもっと貢献していきたいと強く感じました。
今度は経営戦略研究所のステージから、先生の創りたい歯科医院を先生とスタッフと一緒に叶えていきたいと思います。