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地域一番プロデューサー五島 光

略歴

熊本県生まれ、京都育ち、横浜在住。
いろいろあって、立命館大学法学部法学科法律学特修課程卒業
大学生のころから働いていた京都・滋賀方面で有名な教育サービス会社に入社して、小中学生を指導。

保護者からの信頼も厚く、「独特のスタイル」「おもしろい」「わかりやすい」「実力がつく」という定評ある授業で多数の子どもたちを合格へ導く。激務の中、子どもよりむしろ大人側・社会を変えていく必要があることに気づき、経営・組織改革のコンサルタントを目指す。偶然にも某セミナーで岩渕龍正を目撃し、後に経営戦略研究所へ入社。

潜在意識・能力開発・時間管理・コミュニケーションスキル・願望達成スキル・時間管理の知識は相当なものと自負している。鋭い直感と強運の持ち主。

11月22日生まれのさそり座。動物占いは「カンの鋭いさる」。はじめは遅いがあとで追い抜く指数関数的成長をするのが特徴。

硬くて食べつらいが噛むほどに味がしみでるスルメのような人間になりたいと思案中。

もっと詳しく

小さい頃から、スポーツ嫌いで運動音痴でした。父に無理やり連れられて行った少年野球も楽しいと感じず、1人で勝手に科学博物館などに行って1人で楽しんでいました。また、中学受験のために母に勧められた進学塾にも途中で飽きました。

両親なりに考えてやったことでしょうが、「なぜ大人はやりたくないことを無理にさせようとするんだろう」とよく反発していました。こういう子どもでしたから、スポーツで目立つこともできず、ちょっと賢いだけで地味に大人と権威への反抗心むき出しの幼年・少年時代を過ごしました。

高校に入ってからはあまり学校へ行かず、行っても地味で暗い集団とアヤしい話をしていました(クラスに必ずいたでしょう?)。学校へ行かない日は「人と違う生き方はないものか」と考えながら1日中テレビを見ていました

そんなこんなで卒業して「人と違う生き方をしたい」という思いから医学部を目指しました。それは医学部を目指す人は多くても、実際に入れる人は数少ない。つまり、大学受験の頂点が医学部であり、医師という職業も普通とは違う専門的なものという考えがあったからです。そして、「どうせならトップに行きたい」ということで京大医学部を志望しました。人命を救うんだとか崇高なものではありません。自分のプライドといった一人よがりなもので決めました。海外ドラマの影響もあったかもしれません。今思えば受かるわけはないんですが、受からないわけがないと思っていました

医学部を目指した浪人生活が始まりました。自分を追い込んで猛勉強を重ねました。凝り性のせいか、赤ボールペンなどの書き込みで参考書もノートもよれよれになるくらいにやりました。その結果、2年目には難易度の高い模擬試験でも偏差値が73までに到達しました。

「受かるのではないか?っていうか、受からないわけがない!」と思い込んでいました。模擬試験で私は全国でも成績が100番以内に入っていたし、私の下には何十万という受験生がランク付けされていたからです

しかし、本番が近づくにつれてどんどん冷めていく自分がいました。「こんな自分が受かっていいのかな?本気で医者になろうという人もいるだろうし、そこまで熱意はないしな」という気持ちが強くなっていきました。

そして、合格発表になりました。私は合格できませんでした・・・。
模擬試験で私より下だった人が合格し、私は合格できなかったのです
。「やはり、これは自分が医学部に対してそんなに熱意を持てなかったからだ。そんなに甘いもんじゃないしな」と自分を納得させつつも、夢を捨てきれない自分がいました。それで次の年も、その次の年も惰性で受験した記憶があります。もちろん、合格するわけはありませんでした。

そこで、それまで自分を支えていた「医学部に入る」という目標は捨てて、滑り止めにしていた理学部に行くことにしました。ここに至るまで、私はなんと4年間も浪人生活に費やしたのでした。普通に考えればバカな時間の使い方をしたと思います。なぜなら、現役で大学に行った人は既に大学を卒業して社会人になっている年月です。親もたいへん心配したと思います。ただ当時の私は他人のことなんかどうでもよくて、自分の納得がいくまでやってみたかったのです。だから、私は自分が歩んできた4年間がムダとは思いませんでした。

なぜならそれは、4年間勉強だけをしてきたわけでなかったからです。勉強するだけでなく、いろんなことを知っておきたいという好奇心が人一倍あったので、深夜に治安が悪いところのコンビニでアルバイトしたり(コワいお兄さんに何度も脅されたり)、おじいちゃん・おばあちゃんにパソコン・インターネットを教えたり(覚えるのが遅くて根気が必要です)、家庭教師したり(問題児ばかり)、霊園の前で供花を売ったり(市価の3倍くらいするぼったくりの花屋です)、なぜか二輪免許と取りに走ったり(風を感じてみたかったし)しました。他人から見たら大した経験ではないと思われるかもしれませんが、私には貴重な体験でした

「自分が重ねてきた、この4年という時間は普通に大学に行っていた人たちに負けていない」。そんな自負が自分にはあったからです。

さて、医学に近そうな理学部に入ったものの、医学部であれば「医師」という専門職に通じるような道も理学部にはありません。あっても研究者とか教員免許くらいです。それでは最初に私が目指した「人とは違う生き方」ではないという思いが強くなり、迷わず大学を辞めました。それは4月に大学に入り、夏が終わり秋の足音が聞こえかける頃でした。

大学を辞め、あきらめがつかなかったようにもう1度医学部を受験してみましたが、既にそういうにも飽きている自分がいました。本当に「惰性」という言葉が当てはまるような毎日を過ごしました。ただ、その頃に本格的にパソコンにはまってしまい、大学受験生向けのサイトを作ったところ、Yahoo!に新聞にラジオに雑誌にとメディア進出してしまいました。リクルート関連会社からも誘われるという貴重な経験をしてしまいました。日々の惰性の中に何らかの刺激がほしかったのだと思います。将来のことなんか考えずに、そういうことを楽しむ自分がいたことは事実です。

その後あきらめ悪くもう1度受験しましたが、当然のごとく失敗しました。合計すれば6年間、進歩しなかったことになります。6年という期間は現役で医学部に受かった人が卒業できる期間です。可能性は常にあるとそれまでは思っていましたが、この時、私は自分の限界と挫折を知ることになりました。楽しいことは少しあったものの総じてその6年間は明るいものではなく、自分を納得させるために「この時期はこれから自分が世に出るための潜伏期間なんだと。きっとこの経験は将来に役立つんだ」と思うようにしました。そこで、今までの自分を切り捨てようと、専門的な学部ですがまったく畑違いの法学部へ行くことにしました。

法学部は私学だったので学費は高く、自分で稼がねばなりません。「特殊な技能もないし教えることしかできないな。できれば時給の高いところがいい」ということで塾講師をするようになりました。ずっと1人でやってきましたから、集団に教えるセンスもないしまったくダメな教師で苦労しました。でも、「もっとお金ほしいし、そのためには量をこなして早くうまくなるしかないな」という一心からひたすら教える技術を磨き始めます。

「わかりやすく授業内容を伝えるには」「どうすれば勉強に取り組んでくれるか」などを追求するために、プレゼンテーションスキル・話し方・聞き方、その他役に立ちそうなものを勉強し、土日も夏休みも正月も働き通しました。そうして、知らないうちに周りから欠かせない存在と思われる自分になっていることに気がつきました。

この時期は苦しくも楽しい日々でした。学費を払ったら交通費がなくなって大学へ行けないという笑うに笑えないこともありましたし、一時期家庭の事情で滋賀県へ居候して朝4時起きで寝るのが夜1時・2時というときもありました。そういうときは「このヤロー、今に見てろよー」と誰に向けられたのでもない怒りを発して、自らを奮い立たせていました

大学卒業後は、そのまま講師をしていた会社に入社。いきなり即戦力で、営業・チラシ作成・面談・授業とやることはすべてやりました。6年の遅れを取り戻すべく、1年で3年分働くと決意して日々を過ごしていました。

しかし、その塾で働いた年数は大学も含めて5年目くらいでしたので、この仕事を続けても行き詰まるのが見えてきて、「どうしたらいいんだろう」という悩みとも戦っていました。そのころ、たまたまお付き合いしていた人(周りからお前には不釣合いだと言われるほど素敵な人だったんですよ)にフラれちゃったものだから、「だまされても失うものはない」ということで、フォトリーディングという10万円もするセミナーへ行ってみました。

当時の私の年収は250万程度でした。それも朝から晩まで働いてです。そんな財政状況の中に、10万円のセミナーは正に清水の舞台から飛び降りるような覚悟だったのです。

しかし、そのセミナーは正に「目からウロコ」状態でした。驚異的なテクノロジーに触発されてから、私は「自己投資」を積極的に行うようになりました。「視界が開けた」という感じです。毎月の読書代は4万円を越え、DVDを買ったり、他の高額なセミナーへ行ったりするので、生活は以前にも増して苦しいものとなりました。はっきり言って、まともなもの食べていません。毎日コンビニで買ったパンばかり食べてました。

この時、先が見えない塾の講師は辞め、人や組織を変革するような仕事をして、それを極めてみたいという思いが自分の中で強くなっていきました。しかし、いきなりそんなことができるわけがありませんから、自分がやりたいことができるようになるための力を身に着けるために、自分を追い込んでスキルアップに励みました。

そして、「今期が終わる3月には辞めてしまおう」と決断し、様々な知識・スキルを身に着けているときに社内で日本中を騒がせる事件が起こったのです。そのときの大人たちのうろたえぶりといったら情けないものがありました。事件の翌日は日曜日で、小学6年生の特別授業があったのですが、子どもたちは大人よりもしっかりしていました。

そのとき私は「子どもは大丈夫。それよりも『自分が悪いのに子どもを責める』『言うことをきかないときは怒ればいいと思っている』『あまり他人に関心がない』『どう人と接すればいいのかわからない』というような大人の方が問題だ。大人や組織を変えていく仕事しよう」という思いをさらに強くしました。

その後、小学生の頃から面倒を見ていた生徒が高校合格を果たすのを見届け「やることはやった」と感じて、迷いもなくスパッと退職の意向を伝え、ジェームス・スキナーのセミナーへ出かけたのです。

そこで岩渕龍正を目撃しました。クルーとして真剣にゲストをサポートする姿には心を打たれました。「こういう人、ほんとにいるんだ!」と感動したのを覚えています。思えば、その出会いは運命的なものだったかもしれません。転職サイトを見ているときに、偶然にも経営戦略研究所が求人しているのを知って、応募。そして今、「大人や組織を変えていく仕事」をよりスマート&エレガントにできるように充実した日々を過ごしています。

これからは皆さまといっしょに、地域に愛される素敵な歯科医院を作っていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。