地域一番プロデューサー吉田 慎太郎

略歴

生まれも育ちも神奈川県平塚市。猛烈キャラの父親を嫌いつつも選んだ仕事は父親と同じく製薬会社のMR。大学卒業後に大手食品会社の製薬部門に入社。

札幌・釧路・東京と全く異なるマーケティングエリアを経験。
新人時代はトッププライオリティー製品におけるプレゼンテーション大会で約400名の中から3位入賞となり海外研修を受講

釧路では広大な道東エリアを一手に担い中核病院と近隣医療施設・調剤薬局を結びつけるエリアマーケティングを実施しエリアでの新製品の採用軒数や特許賞(年に一人いるかいないか)の表彰を受ける

東京では大学担当者として新製品を全国No.1へと押し上げる。MRに陥りがちな医師のみとの関係構築ではなく、看護師さん・薬剤師さんといった幅広いメディカルスタッフとの連携から医療現場の真のニーズ把握とソリューションを提供。
持ち前の行動力と人間関係構築力で顧客からMR以上の存在として信頼を得る。会社では34歳最年少での管理職試験に合格し、他支店の若手社員向けに自身の経験や考えを講演することがきっかけでマネジメント・コーチングについて学ぶ。

管理職試験に合格したものの会社都合の業務内容がウェイトを占めるようになることに疑問を感じ始めていた時に経営戦略研究所と出会う。
「売上ではなく、顧客のためだけに全力を尽くせる」
「自分の成長がクライアントの豊かさに直結する」

MRという営業職であっても相手の利益・ソリューションを第一に対応してきたことで同じ製品であっても付加価値を高め満足を得て頂きました。
今後も対話を大切にして真のニーズを吸い上げ、患者様とクライアントの豊かさに全力を注ぎ地域一番医院を創りあげる。

家族構成:妻、娘
おひつじ座 B型

吉田慎太郎をより知って頂くために

幼少期

1982年3月30日、私は神奈川県平塚市で生まれました。一般的なサラリーマン家庭の末っ子長男です。
天然でやさしい母の前では伸び伸びと、猛烈キャラの父の前では顔を強張らせる少年でありました。
私の父は四国の田舎で育ち、ケンカに明け暮れ身を守るためにはチェーンが欠かせなかったらしく、祖父を怒らせては庭の大きな松に縛られていそうです。私が生後間もないときも夜泣きがうるさいからと、私を外の車に放置しに行くこともしばしばあったとのこと(今の時代では考えられません!)。

素直な気持ちを表現できない幼少期
田舎で育った私は、近所の友達と森林に秘密基地を作ったり、泥団子やカブトムシを捕まえたりと暗くなるまで外遊びでストレスを発散しては家では大人しくしていました。

小学校にあがると徐々に周りの友達との家庭環境に違いを感じるようになり私も思うのです。ゲーム機が欲しい、お小遣いが欲しい、遊園地に連れていって欲しい、ハンバーグが食べたい・・・普通はこういった欲求を子供はストレートに表現するのではないでしょうか。

しかし、先述の通り猛烈な父の前では欲求を伝えようものなら「子どもが何言ってるんだ!」と鉄拳制裁も覚悟する環境でした。
今思えば「子供だから言っているんだ!!」ですよね・・・。

小学校2年生、Jリーグが開幕し空前のサッカーブーム。周りの友達の多くは次々に野球とサッカーに目覚め、どちらかのスポーツを習っていました。あの頃は読売ベルディーのカズやラモス、横浜マリノスの井原やディアスに夢中となりチームTシャツやジャージを着ていた友達が羨ましくて仕方がありませんでした。
私も運動神経は良い方でしたので放課後友達と野球やサッカーで遊ぶとそれなりには出来ていたので、習ったらもっと上手くなれると思い近所のサッカーチームに入りたいという欲求が大きくなっていくのでした。
「お父さん、サッカーを習いたい」
一大決心の末にお風呂で打ち明け、しばしの沈黙の後に父はこう言いました。
「・・・じゃあ、今度見に行くか」

それからリトルサッカーの練習を見に行くまでの数日間は楽しみで景色が違って見えていたのを思い出します。

数日後、父に連れて行かれた先は剣道場でした。
頭を下げる父に大きな失望感を抱きそのあとの記憶は残っておらず、あるのはすでに防具をつけ始めてからの記憶です。
そして初めて剣道の大会に出場しました。試合前になんと袴の裾が引っかかり階段から転げ落ち膝を強打。泣きじゃくりながらも「絶対に出ます!僕できますっ!!」棄権をすすめる先生は「なんて根性のある子なんだ・・・」と感心ぎみな様子でしたが私の心の中にあるものは「棄権して父に怒られたくない!」という恐怖心のみでした。片足を引きずりながらの試合で結局はボロ負けし、帰りの駐車場で父親にもの凄い勢いで怒られたことを鮮明に覚えています。
そんな私も負けず嫌いであり、一生懸命練習した結果、地域の剣友会でも準優勝をすることができました。子どもながらに努力をすれば報われるということを自分に教えてくれた剣道。そんないやいや始めた剣道は小学校を卒業するまで継続しました。

高校時代はエースをねらえ!

小学5年生からは剣道を習うかたわら、父親に見せてもらったマイケル・ジョーダンの試合からバスケットボールにもハマりました
小学校のアルバムを見てみると、いっつも同じ赤いTシャツ姿のバスケット少年がいます。それは祖母に買ってもらったジョーダンが所属するシカゴブルズのチームTシャツです。
ジョーダンのプレーに目を奪われたこと、剣道と違って防具をつけなくても痛くないという開放感から、バスケットにどんどん夢中になっていきました。

「真似ることは成長への近道」

中学校では迷わずバスケ部に入部し、ジョーダンのプレーを録画してダンク以外で真似できそうなプレーを練習する日々が始まりました。当時そんなことは周りのみんなには話さず、一人で夜な夜な中学校のグラウンドまでランニングし、外のコートで2時間くらいジョーダンのプレーをイメージして練習をするのです。
2年生ではすぐにレギュラーに選ばれ、そしてポイントゲッターとしてチームを牽引する存在になることができました

高校は、中学時代の先輩からうちの高校には実業団でプレーした先生が顧問だから来いよと誘ってもらえたこと、あとは実は紺色の学ランがとても格好良く見えて、その憧れから地元の県立高校を受験することに決めたのでした。
バスケットボール部を見学させてもらい、即入部。

「チャンスは必ずやってくる」

3年生が夏前に引退し、2年生と1年生で新チームを編成していくわけですが、先輩に混じってAチームのメンバーとしてゲームに呼ばれるのはいつも他のメンバーであり、私は選ばれず、それが悔しくて仕方がなかったことを覚えています。
悔しかったことのもう一つが身体能力の違いです。身長が高い、かつジャンプ力があるライバルたちに嫉妬心を覚えました。顧問の先生は常々、「チャンスは必ずやってくるから準備を怠るな」と言い、ただただその言葉を信じては悔しさを糧にやること全てに負荷をかける毎日でした・・・同級生よりも走る、あえて腰を落とす、深く膝を曲げる、基礎基本を練習しました。私は好きなことにはとことん熱中する、そして努力を惜しみません。

夏合宿では、オールコートプレスというディフェンスの動きを徹底的に覚えるのですが、その動きが顧問の先生の目に止まることとなり、夏合宿を乗り越えると「吉田はディフェンスが上手い」という評価をもらえるまでになりました。その後、スタメンで起用され、県大会出場をかけた大事な試合で相手のエース兼キャプテンのマークを任せられたのです。見事相手のエースを最小限の得点に抑え込むことができ久々に県大会への出場権を獲得することができました

「チャンスは必ずやってくる」ということを信じて基礎基本を継続すること、結果を出すことの重要性を学び、そして何より仲間から信頼されることの喜びを得ることができました。大学時代も部活に入部し、チームスポーツから学んだことは、それからの社会人経験の中でも活かされたように思います。

社会人生活

幼少期から厳しくしつけられていたため、父親のことは嫌いでしたが、父の仕事への姿勢は尊敬できるようになっていました。父親は製薬会社に勤めていたのですが、スーツ姿はビシッとして格好が良く、毎朝母か私が靴を磨いて見送りました。
親戚から体調が悪いと相談されては安心できる友人の医師を紹介し、祖父が脳梗塞で倒れた際の対応や担当医師とのやり取りも冷静でいつもとは違う頼れる父の姿がありました。
「薬を通じて困っている人の役に立ちたい」
こうして私もまさかですが父と同じく製薬会社のMR(営業職)として社会人生活をスタートさせることになりました。

最初の配属地は札幌。
全国の同期からも次々と新製品を採用させた、大口施設でも他社製品から切り替えたなどを耳にしては、自分の思い描いていた理想と反して成果を出せていないことに焦りを感じていました。

「まずは相手のことをよく知る」

自分もこの仕事で必ず成果を出したい、そんな想いから患者さんは多いものの前任者が訪問できていなかった未開拓の病院を訪問してみました。
強面でカラダの大きな院長先生と面談し、自社製品の説明はするものの先生はこちらを見向きもせずに「お前の会社は全然来てなかったから使わないよ」と言われました。それから毎週のように訪問するも同じように目も合わせてもらえないことが続いたある日、先輩から質問を受けます。「その先生はどこの大学の出身で、何を研究していたのか」

私は両方とも答えられませんでした。続けてその先輩は私に聞きました。「吉田は自分のことを何も知ろうとしない営業マンから高い買い物をするか?どうせ買うなら、自分のことに興味を持ってくれる、いろいろ知ろうとしてくれる人から買ってやろうと思わないか?」と。

そこで大きな気づきと反省をするのでした。私は単に自社製品の押し売りをしていただけなんだと。「相手のことを知る」という、営業上で大切な基礎基本ができていませんでした。漫画スラムダンクのシーンで例えるなら、基本のレイアップシュートの練習もせずにダンクを狙いにいく桜木花道のようなことを私は仕事でしていたのです・・・!

すぐに先生が著者になっている論文データを取り寄せて読み込み、先生のもとを訪問しました。専門分野について少し踏み込んだ質問をすると、これまで見向きもしなかった先生が初めて私の顔を睨みつけ、「お前、俺のこと調べたのか」と一言。それからは徐々に私のことを受け入れてくれるようになり、患者さんのためになる薬剤は次々と切り替え採用していただきました。
気がつけばほとんどの製品を採用してもらっていました。上司との同行では「吉田を信用してオタクのモノを採用しているんだから上司のアンタにお礼をいわれても嬉しくねえよ」と言って貰えたときは初めて、MRとしての仕事のやりがいや楽しさを実感できました

相手を知るということの重要さは、仕事上だけに留まりません。人との信頼関係を構築する上で最も大切なことを、この新人時代に学ぶことができました。

3年で道東エリアへの異動

一本の電話から異動の知らせが・・・。
もともと私は地元である平塚・神奈川が大好きであり入社当初から一貫して配属第一希望「神奈川」としていました。ですので、異動と聞いた瞬間は「関東に帰れる、横浜支店で働けるのでは」と期待に胸を膨らませました。が、告げられた異動先は・・・
道東営業所。釧路を中心に中標津と根室までという広大な土地を一人で担当することになりました。「人よりも牛が多いよ」「SUVの営業車を与えられるのは雪がすごいからだけではなく、鹿とぶつかった時に命を守るためだよ」といった余計な情報ばかりが流れ込み、道東が地元の方には失礼ですが、「左遷された」と当時は思ってしまいました。同期たちからもそう思われているんだろうな、という悔しさや恥ずかしさ、惨めさでいっぱいでした。

初めて釧路駅に到着した時は、札幌とは違って活気のない街並みに景色が灰色に見えました。まだ何も失敗していないのに、何故か挫折感を味わいました。

やる気の出ない1ヶ月。かなりの田舎を担当しているという劣等感のようなものを抱いていました。上司も札幌に住んでいて月に1度だけ同行に来るといった状況であり、広大な地域を一人で担当しているため、人口密度に比例して社内でも孤立した存在となってしまいました。当然友達もいません。モチベーションが上がらない悶々とした日々を過ごしました
とはいえ、まずは担当変更の挨拶にも行かないといけないので根室市の病院へ向かうことにしました。釧路から根室へは大草原の中にある一本の国道をひたすら2時間かけて走ります。左を向くと北方領土の国後島、右を向けばタンチョウ鶴や蝦夷鹿が走っているではありませんか。ふと目の前を見れば今度は人が手招きを・・・ いきなりの免停と罰金、心の底から悲しくなりました。

「環境は自分で変えることができる」

それでも、とにかくこの道東エリアでは人とのつながりを大切にしました。広大なエリアの特性上、コミュニケーションに関する課題が医療圏内にあることに気づき、ドクターと薬剤師の先生方が顔を合わせることができるよう、私が主導となって釧路市内にある病院と調剤薬局との合同勉強会を企画しました。自社製品についてだけを単にPRするのではなく、医療に貢献するため相手のニーズを探り、解決の手助けをしていく。この活動を通して、多くの先生方の信頼を勝ち得ることができました。MRとしての付加価値を高め、業績も伴い、会社から表彰もされました

仕事で信頼関係を築いた先生方からはプライベートな恋愛相談や詳しかったゴルフクラブについての相談で逆に声をかけられ「○○社のMRさん」ではなく一個人として多くの先生方から認識される存在となりました。3年前にハワイでおこなった私の結婚式にも出席してくださるほど仲が良くなった先生方もいます。
その後、釧路ではライバルである他社MRにこそ率先して情報を与えることにしていました。先生方との関係の強さを認識させ、裏で根回しをしようものなら真っ先に先生から私に情報が入るということを理解させるためです。ライバル会社は複数人ですが私はたったの一人ですから、駆け引きをしながらあの手この手で自社製品の防衛と最大化に努めました。

「人間万事塞翁が馬」、これは尊敬する先輩が、道東配属を告げられメソメソしていた私にかけてくれた言葉です。私にとって道東で学んだことや出会いは、かけがえのないものとなっていました。

私が好きな本に、『置かれた場所で咲きなさい』という本があります。置かれたところこそが、今の自分の居場所。「こんなはずじゃなかった」と思う時にも、その状況の中で「咲く」努力をする。そうすることでその環境は、自分が願う最高の環境に変えることができるのだということを学びました。

配属当初、灰色の景色に見えていたこの道東エリアは、その後の人生を彩り豊かに変えてくれる、とても素敵な場所となりました。

東京の大学担当者に・・・新製品の発売

その後、大きな成長をくれた釧路を離れることに寂しさを覚えつつもMRとして目標の一つであった大学担当者に抜擢してもらうことができました。
皆様も大腸内視鏡検査を受けたことがあるかと思います。検査の前に2リットルくらいの透明な薬液を苦しみながら服用してはトイレに駆け込んで大腸の便を洗い流すというものです。その製品が、味も飲みやすくなり新発売されることとなりました。まずは全国の大学病院に先駆け採用でき、喜んだのも束の間、思ったように古い製品から切り替わらず業績は苦戦しました。
「この薬剤が使われないのは、薬剤の良さが先生たちに伝わっていないからか?ただ新しい薬剤を処方することが面倒なだけか?」と、問題点は何か、仮説を立てながら検証する毎日。
「患者さんのメリットになることは間違いない。」その確信のもと、ここでも釧路時代に学んだことを活かし、医師だけでなく、現場の看護師さんや薬剤師さんともコミュニケーションをとり、ニーズを汲み取る活動を行いました。そして、患者さんへの薬剤説明の煩雑さが課題であることに気づき、病院で誰もが同じように説明できるマニュアルの作成に取り組みました。
外来や内視教室の看護師さんと試行錯誤しながら1ヶ月以上かけて完成させたそのマニュアルが、多くのドクターや多科の看護師さんから支持され、その新製品の使用が進み全国No.1の実績を築くことができました。

転職のきっかけ

製薬業界でMRとして働いて約13年。「売上」ではなく先生方との信頼関係構築を最も大切にして、地域医療に貢献するためがむしゃらに働きました。会社では最年少で管理職試験にも合格し、責任あるポジションを今後任せられる・・・そんなタイミングで経営戦略研究所に出会いました。
経営戦略研究所を知ったきっかけは、高校時代、ともにバスケット部で汗を流した後輩の高橋がこの会社で働いており、彼から近況報告を受けた際に仕事内容を聞くことができました。
「クライアントから沢山の“ありがとう”を言ってもらえる仕事をしている」「ビジネスパーソンとして、自分をレベルアップさせてくれる会社である」と、経営戦略研究所での仕事内容や、一緒に働く仲間のことをあまりに活き活きと話す彼を見て、 “新しいことにチャレンジしてみたい!”という気持ちを抑えることができず、転職の決意にいたりました。
とはいえ、34歳ではじめての転職。MRの仕事も充実していましたし、前述したとおり、タイミングとしては管理職試験にも合格した直後。その上、ちょうど転職を考えるようになった時期に妻の妊娠が発覚しました。妻の第一子出産はまさに自分にとっても人生の一大イベント!

当然、会社の上司・同僚、妻、幼少期から厳しかった父親も含め周囲からは、このタイミングで、さらに全く別のコンサル業界に挑戦することの苦労を考え、「本当に今転職しなければいけないの?」と反対の声もちらほらありました。家族の理解がなければ転職は厳しいかな、と諦めかけていたこともあり萩原に相談することにしました。すると後日、岩渕と萩原がスケジュールの合間を縫って妻とも食事をする機会を設けてくれました。仕事内容や勤務体系などについて私の妻の不安が少しでも取れるようにとオリジナルの資料まで準備し説明してくれたのです。

ただ新しいことにチャレンジしたいだけならどんな会社でも良かったかもしれません。しかしこのように、転職する本人だけでなく、その家族の幸せも同じように大切に考えてくれる会社だということを知り、もう自分にはこの会社しかないと思えるようになりました。幼少期には素直な気持ちを伝えることさえ難しかった厳しい父親に対しても、どうしてもチャレンジしたいという気持ちを伝え、最終的には背中を押してもらえました。

2017年12月、無事に第一子が生まれました。いつかわが娘に、「君が生まれてくるときに、お父さんも挑戦することを選んだんだよ」と、自分の人生の転機となった転職について話をしたい。そしてその仕事内容は誇れるものでありたい。

コンサルタントとして、クライアントのニーズを真摯に汲み取り、医院全体の信頼を得られる仕事をとおして、クライアントの豊かさに貢献していきます