

略歴
鹿児島県鹿児島市生まれ、福岡県北九州市育ち、東京都板橋区在住
高校卒業後、非鉄金属の製造・販売会社へ入社。入社後は自動車部品部門へ配属となる。その後、「自分のやりたいことの幅を広げたい!」と初めて自分の“夢”について考え、大学進学を決意。その勢いのまま退職し、特別支援学校教員や複数アルバイトを経験した後に大学進学。
大学卒業後、面接時に言われた「仕事が楽しければ、人生が楽しいよ」という言葉に惹かれて、大手人材広告会社へ入社。求人広告の外勤営業として従事。その間、連続達成での賞やチーム賞など社内賞を受賞。
その後、「もっと個人に対して関わる仕事がしたい!」と思い、ヘッドハンティング会社の人材紹介コンサルタントへ転職。福岡支店や大阪支店(新規立上げ)で勤務。その際には大阪支店の人材紹介部門責任者を経験し、マネジメントも経験。
その後、人材紹介会社を数社経験している中で弊社コンサルタント乙川と再会し、経営戦略研究所を知る。面接が進むにつれて、社員の人柄・会社のビジョン・成長できる環境などの魅力を感じ、これまでの経験を活かして成長できる環境だと確信し、入社を決意。
・家族構成:妻・猫
・ふたご座 O型
山田 佑馬をより知って頂くために
幼少期~高校
「運動好き・勉強嫌い」から「運動好き・勉強好き」へ
私は「運動好き」な子供でした。
親が運動好きで幼いころから水泳や野球、バレーボールなど多くの運動を経験させてくれて、運動ばかりする子供でした。小学校では野球、中学高校ではバスケットボールと学生時代はずっと部活に入っており、典型的な体育会系な子供でした。
そんな私がもっとも苦手だったのが勉強でした。というよりは「勉強嫌い」でした。
運動は積極的にやろうとするのに、勉強になると「勉強をやっても意味がない」「何で面白くないことをしないといけないのか」など、やりたくない理由を言い続けるひねくれた子供でした。実際に小学校から中学校までのテストは記号しか書かなかったので、いつも10点くらいでした。
(お恥ずかしながら100点中10点です(笑))
そんな私にも勉強好きになるきっかけがありました。
それはスポーツ推薦で入学した高校での初めてのテストでした。
なんと人生で初めて90点を取れたことです!
「えっ!?90点!?そんなに高い点数取ったことないけど何かの間違いじゃない?」
そんな疑問が出るほど、驚いたことを今でも覚えています。
初めて90点を取れたことは、たまたまだったかもしれないが「自分もやればできるかも!」と考えるきっかけには充分な出来事で、そこからはテスト前だけではなく、授業中もしっかりノートを取るようになり、過去の自分と勉強に向かう姿勢が明らかに変わりました。
母親からも「あんた、何で勉強してるの?」と聞かれるほどの変わりようでした。
私は人より記憶力が乏しい分、他の人より時間と根気で乗り切りました。暗記はノートが真っ黒になるほど書き、わからない点は理解するまで先生に聞きに行っていました。
その努力もあって、勉強でも結果が出るようになり、苦手の勉強でも頑張れば、結果が出ることを確信しました。
人生で初めて勉強という分野での成功体験を積むことができ、「勉強嫌い」から「勉強好き」へ変わる事ができました。
あの時の成功体験が無ければ今の自分はないと思います。
人生で初めて「夢」について真剣に考えた18歳
「こんなところで、何をやってんだ」
高校卒業後は母子家庭だったこともあり、少しでも家計の足しになればという想いから、就職することにしていたので、地域の町工場である自動車部品メーカーへ入社しました。その会社を決めた理由は、とにかく早く内定を決めて親を安心させてあげたかったためでした。自分がやりたい仕事ではなく、早く働くことを目的とした就職活動でした。
当時の自分はとにかく稼がなくてはと、目の前の生活をする上での手段として働く日々を過ごしていました。
そんな刺激のない日々を送っている中、何をおもったのか「自分は将来、何になりたいのだろう・・」と漠然と考えるような時間が増えていました。
「小さい頃は、小学校の先生になりたかったな」「消防士ってかっこいいよな」等、色々と考える内に、自分のかっこ悪さにイライラする日々も増えていました。
そんなときに、いつものように自分のかっこ悪さを考えていると、咄嗟に「こんなところで、何をやってんだ」と自分に腹立ってき、そこで「変わりたい!」「こんな自分は嫌だ!」と思い、人生で初めて“夢”について考えました。
これまでに、一度も自分の将来について真剣に考えてこなかったため、まずは自分の良いところも悪いところも両方とも考えることから始めました。最初は、なかなか答えが見つからず、非常に辛かったが、諦めず一つ一つ整理していきました。
色々と将来のなりたい姿を考える中で、どのような仕事であろうと誰かに何かしら貢献できる素晴らしいものであることを感じた、一方で自分の貢献できる能力を見た際に、貢献できることの少なさに悔しさを感じました。
しかし、後悔しても何も得はないので、自分の中で唯一自信があった体力が武器になると考え、人の命を守る消防士を目指そうと1年ほど勉強することにしました。
子供たちとの出会い、小さな一歩を踏み出した19歳
「弱い人間だなぁ・・・」
高校卒業後に働いた会社を退職して数か月後のある日、社会人バスケットボールの先輩から「1ヶ月間の限定だけど、特別支援学校で先生してみない?」と提案がありました。少し考えましたが、一般的な19歳の人であれば特別支援学校教員の経験はできない、貴重な経験だろうと思い、働くことを承諾しました。
この時は、この決断が今後の人生の価値観を変える決断になるとは考えもしませんでした。
承諾後、1ヶ月後には特別支援学校の校長先生と面接を行い、臨時教員として1ヶ月間勤務することになりました。「こんなに簡単に先生になって大丈夫なの?」と不安な気持ちになりながらも、「よし!頑張るぞ!」と強い意気込みで、私の短い教員生活が始まりました。
私の仕事は非常にシンプルで、下半身不随で車椅子の高校一年生の男の子をマンツーマンで支援することでした。「知識も経験もない状態で、マンツーマンで大丈夫なのか?」と、また不安を感じながらも「やるしかない!」という変な勢いもありました。
いざ始まってみると、これまでに経験したことない日々の連続でした。
1階から2階に上がるのに5分以上時間がかかることや私であれば数秒でできることでも、子供たちは数分、もっとかかる子供は数十分かかけていること、自分が物理的にできないことは、人に依頼することができれば自分ができたことと認識すること等、本当に1ヶ月間はあっという間でした。
そんな中、子供たちが日々、一生懸命に生きている姿を見て、これまでの私は「できない」「やりたくない」とマイナスな発言をして、やってもないのに、やろうとしない人間だったと感じました。自分の過去のことを思い出す度に「弱い人間だなぁ」と自分の子供たちの決断や行動を比べて、恥ずかしさと情けなさを感じたことを覚えています。
この特別支援学校での経験を経て、支援が必要な子供たちがあんなにも一生懸命、楽しく人生を生きおうとしているのに、五体満足の私が弱音を吐くことは絶対にあってはならないと強く感じ、それ以降は弱音を吐かないと決意しました。
この特別支援学校の経験で、改めて自分の将来なりたい姿を真剣に考えるきっかけとなりました。
人材紹介との出会い、仕事に没頭した20代後半
「自分がやりたいことは何なのか」
特別支援学校では、子供たちから人生を一生懸命に生きることの大切さを学びましたので、何ごとにも積極的に取り組むようになり、大学生活でも大学パンフレットに載ったり、四年生の時には教育実習でのポイントを一年生に伝える生徒として100名以上の中から選ばれたりと、過去の自分から変わろうと日々、意識していました。
大学卒業後は、求人広告会社の外勤営業として従事し、これまでの志を大切に未経験ながらもできることから一生懸命に行っていました。入社した求人広告会社は、若手の未経験を採用する文化や大手だったこともあり、研修制度が充実していて、この会社で社会人の心得や営業のノウハウを全て教えてもらいました。
身長が高い分、人前に立つ際は真正面に立たないこと
お客様に提案する際は、「~と思います」ではなく「~です」と言い切ること
新人はスキルがない分、見た目で損しないように身だしなみは必ず清潔にすること
定量と定性を把握して、お客様に論理的に提案すること
質をあげるのであれば、まずは行動量を増やすこと
露出を増やすために、複数の媒体を提案すること
エリアごとの特性を理解し、エリアごとに合った提案をすること
上記のような教えをきっちり守り、社内でも多くの賞を頂くことができました。
その当時の上司と先輩には本当に感謝しています。
また、その上司には仕事だけではなく、人としてのあり方も教えて頂きました。
その中でも私が印象に残っていることは「本当にださいね」とお𠮟りを受けたことです。
求人広告会社は週刊誌でしたので、毎週金曜日が締切日で週末が近づくと営業も制作も全員が忙しくなり、自分の業務に追われる状態でした。そんな中、とある木曜日の夕方に新規クライアントから「求人掲載したい」と連絡があり、目標達成にギリギリ到達しない状況でしたので、「やった!受注が取れる!」と意気込んで、直ぐクライアント先に訪問しました。
訪問後、クライアントが掲載したいと連絡してきたこともあり、求人掲載については、直ぐに承諾して頂けました。あとは求人作成が間に合えば受注になるところでした。ただ、スケジュール的にはイレギュラーなスケジュールで上司への承認が必須の案件でしたので上司に相談しました。
私 「求人作成が間に合えば、求人掲載されるお客様がいるのですが、今から発注は可能でしょうか?スケジュール的にイレギュラーだったので相談させて頂きました。」
上司「これは来週の掲載じゃダメなの?今からだと制作の人が大変だからさ。」
私 「クライアントは来週でも良いと言っていますが、できれば今週に掲載したいです。」
上司「できれば今週に掲載したいって、それは山田の意思やないん?」
私 「はい。今週、これが受注できれば目標達成するので、できれば受注したいです。」
上司「山田、本当にださいね。自分以外の人に迷惑をかけても自分が良ければいいって考え絶対に報われないよ。自分が受注した後に、どんな人がかかわっていて、どのくらい時間がかかっているかを、ちゃんと把握した上で仕事しないと成長はないよ。」
この出来事から、私は自分の仕事だけではなく、自分の仕事に関わる人を意識するようになり、これまでに比べて視座が上がり、更にパフォーマンスが上がりました。また、制作やアシスタントなどの管理部門の人とも良好な関係を築くことができるようになりました。
そんなことを経験させてもらう中、採用に携わっている以上は自分のキャリアを整理することも大切と感じ、2年がたった段階で改めて「自分がやりたいことは何なのか」と自分のキャリアについて真剣に考える時間を作り、1つの答えを導き出すことができました。
≪好きなこと≫
・なぜ指導者を目指していたか 人を導くことが好きなため
・なぜ人材系に魅力を感じたのか 人が好きで、人が原資になる人材系が好きなため
そんな2点を見出し、これまでの経験も含めて、確実に自分の“夢”に近づいている感覚がありました。そんな想いを感じながら、自分なりに“夢”を仕事に照らし合わせた結果、私が辿り着いたのが“人材紹介”でした。
その後、未経験として人材紹介キャリアを歩み始めた私は、未経験だからこそ、とにかく行動量を増やそうと決心していました。それは営業として大切にしていた「量は質を凌駕する」という考えがあるからです。
これは大手求人広告会社の先輩から新人の頃に教えて頂いた言葉で「新人はスキル的なことは何もないから、できることは行動量を増やすことだ!」と常日頃から言われ、新人の時はとにかく行動していました。そんな甲斐もあって、成果が上がった教訓があるので、環境が変わって未経験だからこそ、まずは行動量を人の倍以上やることを決意して入社を迎えました。
宣言通り、とくかく量をこなし、少しでもなれるために毎日多くの方々と面談をしておりました。(業界平均で月30~40面談すれば良いところを、月平均75名ほど行っておりました)その甲斐もあって、早い段階で成果を上げることができ、実際にイメージしていた「人を導くこと」も実現でき、「人材紹介は自分の天職だ!」と思うほど、仕事にやりがいを感じていました。
また、この時に本を読むことの大切さを支店長から学びました。
それでは本を読む習慣が全くと言っていいほど無く、本を読むことの価値を感じたこともありませんでした。
そんな私でしたが、支店長が毎日本を読んでいたので興味本位で本について聞きました。
私 「何で、そんなに本を読むのですか?」
支店長「面白いからかな。山田は読まないの?」
私 「本を読んで何か良いことがあるのですか?」
支店長「あるよ。山田は本を読まないから、どんな良いことがあるかわからないよね。実際にビジネス書でも読んでみたら?」
私 「うーん、少しは読んだことありますが最後まで読めないんです。」
支店長「あぁ、読破することを目的にしたら続かないよ。もし途中で読まなくなったら、その本は今の山田には合ってない本だと思って読まなくていいよ。」
そこから、「本を読む=読破」という自分の固定概念が崩れ、本を読むということの基準が下がり、気軽に興味のある本を読むようになってきました。
そうすると、仕事上で活かせる知識が身に付いたり、面談時の会話で本の内容が出てきて盛り上がったりと、本を読むことへの価値を感じ始めることができ、周囲からも「変わったね!」「落ち着いたね!」と良い印象を与える効果もあると実感しました。
支店長との出会いで、本を読むこと・勉強することの楽しさを学び、充実した日々を送っておりました。
そんな中、福岡支店での勤務を丸3年経験したタイミングで、大阪支店の新規立ち上げの話が上がってきました。元々、新しい支店が出来たときにはいきたいと会社に言っていたのもあり、大阪支店の立ち上げメンバーとして福岡から大阪へ転勤することになりました。
大阪支店は人材紹介部門とヘッドハンティング部門の2部門で構成されており、その人材紹介部門への配属が決まったが、まさかの1名配属で、アシスタントもいない状態でした。
そんな中、これまでの培ってきた経験をフルに活かし、1名コンサルタントが年間に上げる売上が2000万円以上で一人前と言われている中、新規立ち上げにも関わらず年間売上2500万円を上げ、成約率も一次面接対双方合意が20%以上だと高水準と言われている中、その水準を上回る33%と最高水準で達成できました。また、大手外資系IT会社からは年間での入社実績1位を獲得したり、大手化粧品メーカーでの年間での入社実績2位を獲得したりと、多くのクライアントからもご評価を頂けておりました。
上記のような取り組みから、なんとか1年は目標達成させることができ、2年目には第二新卒の後輩が移動してきて2名体制にすることができました。
大手企業での新規立ち上げよりは、売上規模も小さいですが、このときの成功体験が私にとっては非常に大きな成功体験でした。
このときから、仕事は自分に “成長”と“幸福”を与えてくれる価値ある行動だと思うようになりました。
人生のテーマを決め、新たなスタートを決意した30代前半
「人間のパワースポットになりたい!」
人材紹介を続けて7年で、色々な方の夢や希望のお話をすると「山田さんの夢は何ですか?」と聞かれることが多くありました。それはそうですよね!こちらから「〇〇さんは、どのような夢をお持ちですか?」と聞いているので、聞き返されるのは必然でした。
人材紹介を始めて、最初の1年ほど経った頃に「自分が夢を聞くなら、自分の夢も語れないとダメだ!」と思い、自分のやりたいことを考えました。
・人を導くことが好き
・困っている人を助けたい
・元気を分けてあげたい
・夢を語り合いたい
自分の好きなこと、実現したいこと、興味があること、強み弱み、周囲からよく言われること、やりがいを感じること等、多くの要素を書き出しては消し、書き出しては消しを繰り返しました。
その他にも、これまで経験で印象に残っている出来事も振り返りました。
・特別支援学校で、子供たちが「山田先生、面白い!」と笑顔で言われた経験
・大手求人広告会社で、採用に困っているクライアントに対して、採用成功にこだわった提案を行い、採用できたときに「助かったよ!ありがとう!」と言われた経験
・人材紹介会社で、「山田さんのおかげで、今は人生楽しいいです!」と言われた経験
そのように考えている内に、私は“人から感謝されたとき“や”元気が出る(前向きになる)!“と言われたときに幸福を感じることができるということに気付けました。
そんな人に元気を与えられる人になりたい!
私と話すと元気になる!
そんなパワースポットみたいな人になりたい!
そう考えていると「あっ・・・」と答えがひらめいた。
「人間のパワースポットになりたい!」
これが私の人生のテーマが決まった瞬間でした。
今でもあの瞬間の高揚感は鮮明に覚えています。
人に幸福を与えるためにも「自分が幸福なること」「幸福を理解すること」が必要と考えていたため、この頃から“幸福”という定義を知るために哲学や心理学の本を多く読むようになりました。
経営戦略研究所との出会い
転職を機に、マイナス状態からプラス状態へ変化しているときに、弊社の乙川と再会したことが、経営戦略研究所との出会いでした。
乙川が自社のことを熱量持って、語っている姿を見て、自分もそんな熱量を持って働いてみたいと思い、話を聞くほど、どんどん経営戦略研究所の働き方、実現している世界観に魅力を感じ始めている自分がいました。その当時は自分の人生のテーマが決まっており、そのテーマに合った生き方を実現したいと強く思っておりました。
≪人生のテーマ≫
人間のパワースポットになること
そんな想いを持っていたので、乙川の話を聞き、経営戦略研究所であれば「自分が目指しているテーマに近づける!この仕事がしたい!」と強い確信を感じ、挑戦することにしました。
その後、社長の岩渕や萩原、他のメンバーとコミュニケーションを取らせてもらい、自分が目指しているテーマに近づける可能性があると感じていたことが面接を重ねるごとに“目指せる”という確信に変わり、入社することを決意しました。
現在は、一つでも多くの歯科医院を地域一番にするため、日々精進しております!