地域一番ディレクター山ノ内 友哉

略歴

新潟県出身。管理栄養士過程の大学を卒業。男性では少ない管理栄養士の資格を取得し、栄養学と関連の深い大手食品会社系列の製薬品会社に営業職として入社する。

正直に申し上げると、過去の経歴で他のコンサルタントのような起業経験があったり、日本一を経験するなど飛び抜けた実績はない。自分には何か飛び抜けた才能がある訳ではないということは学生の頃から分かっていた。しかし、だからこそ、私は才能で勝負するのではなく、当たり前のことを当たり前にコツコツとやり続けるという強みを磨くことで、成果を挙げ続けてきた。

前職の在籍期間は約8年間、700床以上の基幹病院にて医師・コメディカルを巻き込んだ 疾患教室の立ち上げ支援で医療従事者間の信頼関係構築の基礎を習得。その後、東京都内の私立大学病院を担当。そこで、自社製品の「現状」と「あるべき姿」を明確化し、そのギャップを埋める活動を週間単位で落とし、新製品で約95%のシェアを確立する。課題解決の原則を実践し、自らに落とし込む。その評価を受け、最も影響力のある東京大学医学部附属病院を担当

堅実なステップアップを積む一方で、国の方針・業界の流れに抗えない無力さを感じ始めていた。自分ひとりの力で問題解決できる力はあるのかと自問自答するようになる。

そんな中、経営戦略研究所に出会う。個々の力で医院を成功へと導く力を目の当たりにし、当社で「患者様のため、医院のため、自分のため」に全力を尽くすことを決める。医療業界における仕組み化の経験を活かしながら、岩渕メソッドと化学反応を起こし、地域一番医院の育成に取り組む

【家族構成】
妻、長男
6月25日生まれ

山ノ内をより知って頂くために

幼少期

私は田園風景が広がる町で三兄弟の三男として生まれました。幼少の時は昆虫採集にはまっていました。特に、夏休みになるとクワガタ・カブトムシ採りばかりしていました。約5箇所の採集ポイントに朝・昼・夜の三度訪問を行い、ラジオ体操は出なくても、クワガタ・カブトムシ採りには行くほど熱の入れようでした。おかげさまで、自他共に認めるクラスメイトNo.1の採取能力がありました。母親も将来は生物に関わる仕事に就くんじゃないかと思っていたほど好きでした。

10年間の継続

小学生に入ると、兄の後ろによくついて回っていました。そんな兄の影響を受け、野球部に入ることになりました。小学校、中学校ではピッチャー、ファーストというポジションでレギュラーとしてプレーしていました。やりきったという感覚と、幼少期に大きな足の手術をした経験から、自分自身の体力は中学生レベルで限界だと感じ、高校入学当初は野球部に入部するつもりは全くありませんでした。

野球をやっていた方なら分かると思いますが、中学校の軟式野球と高校生の硬式野球は別物です。スピード・パワー・危険度は似て非なるものです。初めは入部するつもりはありませんでしたが、友人の誘いもあり、体力がついていけないようなら辞めたらいいかという甘い考え方で入部しました。入部すると、予想通り、高校野球は甘くありませんでした。早朝練習、日が暮れてもナイターをつけて練習、雨が降れば基礎体力をつけるためのランニングとウエイトトレーニング、休日は1日練習、その繰り返し。「部活のために学校に行く」そんな日々を過ごすようになりました。モチベーションが低かった私は「いつやめようか」「なんでこんな辛いことをしているのか」そんなことを考えるようになりました。決断も出来ないまま、時だけが経っていきました。

入部から4ヶ月経ち、同級生の部員数は7割ほどに減っていました。相変わらず辛い練習は変わりませんでしたが、一方で、出来ることが少しずつ増えていきました。試合にも出場する機会も増えてきました。少しずつ充実感を感じるようにもなっていきました。

「もしかしたら、乗り越えられるかもしれない」
「もっと充実感を得たい」

心境が次第に変わり始めました。

「やるなら、絶対にレギュラーなる!」

そう決心しました。腹を決めたら愚直に取り組むだけです。何事もまじめに、継続的に、取り組む性格です。ひたすら練習をしました。

ただ、全員と同じように練習するだけではレギュラーになれるほどの才能はありません。全部員で40名強いたので、チームを牽引できる強みが必要でした。
私は走力、守備、肩、と他の選手に比べて明らかに劣っていました。総合点なら確実に落第点です。
そんな私の唯一の強みは「バッティング(打つ)」でした。ここに活路を見出し、注力していきました。

全体練習後にバッティングの個人練習は勿論のこと、マニュアル本を読み実践したり、試合ビデオでフォームを確認したり、その当時は素振りをしすぎて手の豆がよく潰れていました。
「チームで最も手の豆を潰して血を出す男」として周知されていました。

その結果、バッティングでチームを牽引できる力がつき、クリーンアップを任されるようになりました。強みを生かすために確実に成果になることをやり続けた結果、目標のレギュラーを獲得出来ました。

医療への興味

部活も終わり、進学を決める時、2つの観点を軸に考えました。その観点とは、1つは『スポーツへの貢献』、もう1つは『医療への貢献』です。

スポーツへの貢献は、野球を通して成長してきた恩返しやスポーツに携わり続けたいという思いがあったからです。一方、医療への貢献は、私自身が幼少期に大病を患い、幾度も救われたからです。医療に関わることへの憧れのようなものもありました。
この『スポーツへの貢献』と『医療への貢献』を選び切れなかったので、両選択肢がある職種をさがしたところ、2つの進路が浮かび上がりました。1つは理学療法士、もう1つは管理栄養士でした。

男性が少ないということがチャンスになるのでは!?という安易的な発想から、管理栄養士過程の大学に行くことにしました。

ステイタス

大学において圧倒的な成績を残すことはありませんでした。そんな中で自分に芽生えてきたのが承認欲求です。親や友人が認めてくれる、凄いと思ってくれるフィールドを探していました。そして、そのフィールドで自己成長したいと考えるようになりました。
その思考が行き着いた先が、「医療×大企業」です。このキーワードが当てはまるところで想いは満たされるのではないかと考えました。

『医療』『大企業』『自己成長』の3つをテーマに就職活動を始めました。

目的を持って就職活動をすると目的と合致した企業に出会うものです。全てのテーマに合致した味の素グループの製薬会社に営業職、いわゆる「MR」として就職することになりました。
この会社は誰もが知る『味の素』の冠がついている会社であり、医療・栄養に関連の深い製品をラインナップとして持っていました。医療用食品だけでなく、医薬品も数多く取り扱っていました。キャリアアップを積んで行けば、世界でのキャリアも積む道がありました。
大学で学んだ知識をフル活用しながら、新たなフィールドも広げられるという好奇心を掻き立ててくれました。

入社すると5ヶ月間ほど研修施設にこもり、長期間の新人研修に入ります。理由は、入社年度の12月にMR認定試験があるためです。ひたすら学術的な知識をインプットし、ロープレやプレゼンテーションなどのアウトプット練習をする。これらの反復練習でした。徹底する研修を通じて、プロの医療従事者に対して『適正な情報提供』するという重みを感じました。

研修を終え、最初の配属先は千葉県でした。しかし、配属されると研修で習ったものとは全く別物でした。適正だと思う情報提供を伝えても、反応は良いものではありませんでした。

「いくら良くても現状は問題になっていないから」
「違う薬が安いから」
「○○社の担当者と仲が良いから」

『適正な情報提供』は求められていないと感じることばかりでした。
研修で学んだプロ意識とは机上の空論なのではいかと考えるようになりました。

「思っていたことと違う」
ありがちな早期退職コースまっしぐらでした。

医療従事者

そうは言っても、奨学金返さなきゃいけない、親に心配をかけるわけには行かない、疑問を感じつつも、持ち前の継続的に取り組む姿勢で業務をこなしていきました。
 数ヶ月経ってくると、単に『適正な情報提供』しても誰も聴く耳を持たないが、関係性が構築できた後に情報提供すると好意的な反応を示してもらえたり、院内や他社の有益な情報をもらえることに気づきました。人間関係を築き、情報提供・情報収集をする。物事の原理原則のようなものを感じていました。

そんな時、関係構築の出来ている先生から悩みを聞きました。

先生 「最近外来に来る患者さんが多すぎて、細かな説明が出来ないんだよ。」
 私 「そうなんですね。新患だと尚更ですよね。」
先生 「そうそう。患者の同意が必要な治療とか研究とかまで話が進まない」
 私 「一斉にしたらいかがです? 例えば、疾患教室とか。」
先生 「大変じゃない?」
 私 「最初は大変ですけど、立ち上げたら効率も質も良くなると思いますよ。」
先生 「できる?」
 私 「できますよ!」
先生 「よし、やろう!」

この面談で先生もやる気になりましたが、それ以上に私がやる気になりました。

「患者さんのため、医療のためになる!」そう、感じました。

立ち上げまでの流れをまとめ、先生と打ち合わせをし、方向性を決めていく。打ち合わせの中で、まずは、色んなコンテンツを教室に取り入れなければ患者さんは満足させられないと考え、多業種に声をかけることにしました。先生と一緒に医師・看護師・薬剤師・栄養士に手分けして声をかけました。

「どうして必要なのか」
「そのために何故あなたの協力が必要なのか」

それぞれの職種の人に面談する前に、整理し備える。面談では、しっかりと意味づけをしていく。おかげさまで、何人も意見に賛同してくれる方が出てくれました。

その後は、同じ方向を向くために「疾患教室の意義」について資料を作成し、ミーティングを実施したり、先生と何人かのスタッフで実際に教室を実施している施設に見学にも行きました。
無事、患者教室を立ち上げることが出来ました。MRとしての一線を越えて「医療従事者」として「社会貢献」しているという達成感・充実感を強く感じました。

加えて、きちんと患者指導が行き届くことによって、取り扱っている薬剤もきちんと飲んで頂き、個人の実績にも反映しました。
「誰かを満足させることが出来れば、自分も良くなる」そう感じた瞬間でした。

自分から示す

MRとしての充実感も得られるようになったころ、東京都内の病院・開業医担当へ異動になりました。新しい上司は実績に対して非常に厳しく、その組織内は実績至上主義でした。決めた実績に到達しないとメール・電話・面談・会議で責められる。人格を否定されたように気持ちになります。勿論、私も責められて落ち込んだこともあります。MRは優秀=大都市担当という暗黙のルールがありました。「折角、東京に来たのに。絶対に離れたくない」 目標金額というものを強く意識するようになりました。毎日の数値を見て、おかしな動きがあったら施設に確認行き、アクションを起こす。基本ですが、成果の出る作業をコツコツ行う。

担当エリアとしては、市場の大きな病院がなかったので、関係性の強いところを作っていくことに力を注ぎました。担当施設でスポーツをやっているところは極力参加し、プライベートで距離を縮める。権力のある先生の奥さんが本を出すと言ったらその本を買う。顧客のご家族にも目を向けるようになりました。「あなたと仲良くなりたいですよ」という気持ちを積極的にアピールするようになりました。

すると、実績はどんどん良くなっていきました。『やりたい仕事』と『やるべき仕事』を両立するようになっていきました。目標の実績も立て続けに達成しました。1年半年後には、900床規模の都内私立大学病院の担当を担当することになりました。

ステップアップ

MRでは、大学病院の担当になるというのがステイタスでした。会社に認められているようで、告げられたときは、

「ついにきた!」

とその同時は感じていました。これが苦しい時期の始まりとは知らずに。
大学病院の担当となり、少し経ったとき、国の方針として後発医薬品(ジェネリック医薬品)の使用を強く勧める方針が打ち出されました。業界の流れが一気に変わり、安定した業界に逆風が吹き始めました。私の会社では、売上の半分以上は特許の切れた医薬品(いわゆる、長期収載品)でした。ものすごい流れで、後発医薬品に切り替わっていきました。私の担当していた大学も例外ではなく、むしろ積極的切り替えを推進する大学でした。全国の約80大学病院の中では非常に早い取り組みがされ、成すすべなく切り替えられてしました。近隣ではいち早く実績が下がった大学病院となりました。

絶望感、自分の不甲斐なさ、チームに負担をかけてしまう申し訳なさ、変えられない過去が頭の中で堂々巡りしていた時期がありました。

「このままではいけない。」
「何か変えなければいけない!」

そう思ったときに参加したセミナーが、「7つの習慣」でした。
過去に、本屋で平積みしてあったものを手に取り、一通り読んだのですが、何も実践せず、「なるほどね。」で終わっていました。ですが、危機意識からか、このときのセミナーでは言葉が染み入るように入ってきました。

「重要なのは『緊急でない・重要なこと(第二領域)』に集中すること」
「人生の目標・仕事での目標に照準を合わせた行動すること」

社内研修では習わないことばかり。多くの気づきを得ることが出来ました。それからは、目標に照準を定め、週間単位で自分の行動を評価するようになりました。この習慣がついたことが人生のターニングポイントだったと思います。

「国の施策に左右されないくらいの確立した治療(薬物療法)を発信したい」
「日本で最も影響力のある東京大学医学部附属病院(以下、東大病院)の担当を目指そう」

仕事での目的地を定めました。ご存知の方も多いかと思いますが、医科はピラミッド構造になっています。大学病院の各診療科の権力を握っているのは各科の『教授』です。それは大学内で収まらず、近隣の病院にも大きく影響します。この『教授』らを全国各地で最も輩出するのが前述で述べた東大病院なのです。

この東大病院を担当するためには、今の私立大学病院での実績が必要だと考えました。そのためには、新製品の仕組み化、当時の社内基準で言うと80%以上のシェアが必須でした。 まず、複合的に絡んでいた問題点を分解していき、ひとつひとつ解決していく作業。地味で、労力のいる作業でした。「Aの問題はこの人を納得させたら」「Bの問題はこの人が動いてくれたら」いくつも実践してみました。全く意味のない行動や反感を買ってしまう強引な行動もしました。「このまま何も変わらないかもしれない」という不安に何度も駆られました。それでも、方向性を見失わないために、毎週の週間行動で確認し、必要あれば修正する。また来週の行動を目標に沿った行動として落としこむ。これを繰り返す。すると、最初は無理なんじゃないかと思っていた問題が少しずつ解決されていき、最後には、新製品を同様の薬剤の中でシェア95%を占めることが出来ました。

《目標の重要性、その目標を達成するために、週間単位で行動計画を立て、実践する。少しずつでもやり続ける。それが大きな成果を生む。》肌で実感できた大きな一歩でした。

その結果が評価され、目的の東大病院を担当することになりました。求めたことが現実となりました。

しかし、いざ担当してみると、医薬品業界全体の流れによってエビデンス創出のための研究支援が営業レベルでは出来なくなってしまいました。目的の一つだった『確立した治療の発信』が叶わなくなりました。また、売り上げの大部分を占める特許の切れた製品を使い続けて頂くための活動がメインとなり、社会貢献とは遠い存在になってしまった感じもありました。さらに追い討ちかけるように会社の吸収合併による大きな方針転換。

国の方針により、安価を売りにするジェネリック医薬品との無意味な競争。業界の流れによる活動の規制に拍車がかかり、営業の枠を超えた活動が出来ない。このままMRとして働き続けることでの成長があるのかと疑問を感じ始めるようになりました。
「社会的な信頼が得られると思って大企業に入社したけど、このままで成長していけるのか」
「良かれと思って入った大企業は、実はぬるま湯なのではないか」
「もし、会社が明日なくなったら、自分ひとりの力で本当に勝負していけるのか」
「もっと成長できるフィールド、社会に貢献できるフィールドが外にあるのではないか」

自問自答するようになりました。
この機会に自分自身の人生を見つめ直し、この先どうなりたいのか?何がしたいのかを心底、考え抜きました。そして、私の中で込み上げてきたものは『医療での社会貢献×自己成長』という原点の2つキーワードでした。

そして、国の政策や会社の方針によって、自分の人生そのものが大きく左右されるのではなく、自分の個としての力を本当に磨き抜き、自分が光り輝く存在となり、それによって組織や関わる人に光を当てる、輝かせることができるような存在になることだと確信したのです。

経営戦略研究所との出会い

そんな想いを抱えていた中、当社の萩原のブログに出会いました。萩原の仕事に対する姿勢、自己成長のための投資、それを奨励する会社の体制、圧倒的な社会貢献、私は心を鷲掴みにされました。

「そんな会社が本当に存在するのか!?」と。

その後、知人を介して、当社コンサルタントの萩原・高橋に実際に会う機会があり、代表の方針や実際の講義の映像を見ました。

『患者様のため、医院のため、自分のため』
『与えて、与えられる』
『目標持って行動する』

この話を聞いたとき、「求めていた全てがこの会社に存在する!」そう思いました。クライアントと同じ方向を向いて働くことが出来る。正しく情報を伝えることで医療の質を変える事が出来る。そして、それらを実現するためには、自分自身を高めることが大前提にある。

「最高の社会貢献と最高の自己成長が出来る。」そう強く感じました。

私自身が過去に圧倒的な成果を上げてきたわけではありません。ただ、私は成果の出る当たり前のことを当たり前に実践し、着実な成果を出してきました。歯科医院経営も必殺技はありません。成果の出る当たり前のことを当たり前に実践することが成功への最大の近道です。関わる全ての人に最適な目標設定を一緒に考え、着実なステップアップへ導きます。人生の豊かさを得られるように一緒に考え、実践して行きましょう!